大学院とは何か


 ちまたで「院」と名のつくところには、 どのようなところがあるか考えてみてください。 「病院」とか「少年院」とか、あるいは少し前までは「教護院」とか「養老院」などと呼 ばれる施設もありました。それでは、こうした「院」に共通することは何でしょうか。病 院は病人を収容して治療するところですし、少年院は家庭裁判所から送致された少年を収 容して矯正するところです。いずれも「社会復帰のため、一定期間、社会から隔離するた めの救済施設」であることを意味しています。


 そして、この定義はあまねく「大学院」にもあてはまるでしょう。なぜならば、およそ 現代の消費社会を支配している物欲など、世俗の事柄に囚われることなく自由な精神で研 究に没頭する姿勢こそが、本来の大学院生の姿であると私は考えたいからです。ですから、 「希望先に就職が決まらなかったから、とりあえず大学院へ行く」というたぐいの下世話 な志望はもってのほかです。もちろん、世俗の事柄もなかなか魅力的であなどれないので すが、研究などという正体のわからないものに価値を見いだそうとする人は、世間に迎合 することなく、屋根裏の発明狂のごとく孤塁を守らねばなりません。ただし、そうした人 種が孤高の精神に裏打ちされた人々なのか、あるいは、もともと社会にうまく適応できな かっただけの変人なのかは、あえて問わないでおきましょう。


 いずれにせよ、古来より「院」という響きが持つ一種怪しげな雰囲気は、「安易に世俗の 道を歩むことを佳としない人が、一定期間の隠遁生活を送る場が「院」である」ことと、 無関係ではないはずです。社会に対するこうした違和感は、社会科学においては研究の動 機として作用するでしょう。違和感こそが既成のしくみに疑問を呈するための源泉である からです。


 したがって、病人を治療するのが「病院」、少年を矯正するのが「少年院」であるとすれ ば、社会的な人格破綻者や「ひきこもり」愛好家、「電車でGO!」のためにプレステを購入 し、停車位置の数センチをめぐって一喜一憂する偏執者なども、違和感をバネとして学業 に専心すれば、立派な大学院生となることでしょう。社会が望む「人格」も、たかだか時 代の文脈を反映した相対的な価値観にほかならないのです。病院や少年院と同様に、大学 院がこうした人々の救済施設であることは、大学院生のなれの果てである「教官」という 人種をよく観察すれば、おのずと理解されるはずです。少なくとも自分自身については、 自信を持ってそう断言できます。





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