表現力をつけよう


 車の運転をしながら石塚がラジオをつけると、音楽が聞こえてきます。『ベートーベンですね。 この意志と力、大好きだ。』と、彼は後部座席の川代那美子に話しかけます。黒岩重吾さんの小説を映画化した、増村保造監督作品の 一場面です。その曲は20秒ほど流れるだけですが、音楽好きには、すぐにそれが「エグモント」序曲であることがわかると思います。 ベートーベンの音楽は「標題音楽」ではありませんが、多くの作品で意志の力をわかりやすく表現しています。


 さて、映画の方はまだ始まったばかりなのですが、これから壮絶な結末へと向かっていくことになります。そこに描かれた 世界は、もはや原作とは別格のものです。数ある増村作品の中でも、彼の実力をいかんなく発揮したと思われるこの映画は、生身の 人間が持つ愛憎を執拗に追求しながら、全体を抑制されたドライなタッチにまとめ上げた秀作であると思います。


 一見してヌーベルバーグ期のフランス映画を連想させますが、そのつきつめた表現は、『鬼火』など、若い頃に優れた作品を 残したルイ・マル監督に匹敵するか、あるいはそれ以上でしょう。そんな映画が日本にもあるのかと思うかも知れませんが、この映画 が1964年に制作されたという事実には驚くばかりです。


 文章に限らず、映画でも音楽でも絵画でも、自分の好きな表現媒体がなぜこれほどの説得力やパワーを持っているのかという ことを感じ取ることが、表現力をつけるためのよい訓練になります。