オリジナルな研究は若いうち,と誰かが書いていましたが,神戸大へ来てみると,西塚学長の代表論文は50才以降であることを知って一般化の愚を悟りました.ただ,一般には35才位までがオリジナルなアイデアがでやすいように思っています.私は残念ながらオリジナリテイに乏しく,金沢時代の30頃に単著で書いた2編の論文*について,実はそのいづれもがアイデア・手法等について周囲の人間関係の中から生まれたように思うので背景を含めて記憶を残しておきたいと思います.
東大の学部3年末の講座配属では,第2講座(構造地質)にするか,第1講座(岩石)にするか迷って,各々のセミナーに参加してみたのですが,第2講座のセミナーは安藤雅孝さんが足摺岬等の段丘の地形変動の話をされ(先端が地震の度にピクピク上がったり下がったりする話),佐藤正(当時助教授)さんが主要なコメントをされた印象が残っています.木村さん(教授)は人は悪くないですが,講義で木曽川の礫を上流から下流へ計測された話しをとくとくとされたのが気に入らずつくきになれませんでした.第1講座のセミナーは,当時NASAの若手の旗頭 Philpotts が稀土類元素の分配に関する話をして,坂野さんが激烈にかみついて荒牧さんがなだめ,小会議室の黒板に近い処からぐるっと久野・都城・荒牧・坂野・久城,中村(保),清水,等々のすごいメンバーが揃っておられるのを隅の机の後側から眺めていました.終わると聞いているだけで汗ぐったりになるようなセミナーでした.久野先生の岩石学の授業は多量の青焼のプリント(主に相平衡図)を配布されそれに基づいた授業でしたが,その中で印象に残っていたのが,玄武岩マグマについていろいろ研究がおこなわれているが,初生マグマがどのようなものかについてはまだよく判らない旨のことを云われたことです.学問的な深さから云えば都城さんでしょうが,問題の重要点を直感的に(単純化して)把握される点で久野さんの方がしんどくなくて性にあっていると思い久野さんのもとで卒論をやることにしました.後から思えば,1977のLithos の仕事の問題意識は久野さんの講義で初生マグマについて云われたものだったと思います.一方,学部の巡検で伊那谷へ中央構造線を見に行った帰りに鎮西清高さんが運転されるジープで横の津末昭生さん(鉱床学助手,のちに熊本大)と話していて,「皆が熱力学等の平衡問題に一処懸命なので自分としては元素拡散のような動的過程について研究したい」といった生意気なことを云った記憶があります.たまたまですが,その後,金沢大学に助手で赴任し,小林洋二さん,中川康一さん,M1丸山博君,4年生秋山君等とShewmonの'Diffusion in Solids' を問題を解きながら1年間輪講し,その延長で瀬戸内の火山岩中の石英外来斑晶の周囲の元素分布からuphill diffusion についての仕事をすることができ(1975),それが最初の自分の論文になり,結果として津末さんとの口約束を果たすことができました.津末さんは東大から熊本大へ移られ,1992年に小畑さんが海外出張の折,熊大の岩石学の代講に非常勤講師として呼んで下さり,体の具合が良くないにもかかわらず毎日ご自分の車で宿・駅まで送って下さいました.
久野さんの処で卒論をすることにして部屋に伺ったら,卒論の候補地として3箇所(利尻火山,上州武尊岳,瀬戸内)をあげられました.すこし迷ったのですが,瀬戸内五色台を選びました.五色台は久野さんが以前歩かれて層序の概要(地質雑講演要旨)とサヌカイトの成因に興味がある問題とのことでした.1969年3月の中旬に国分寺に宿をとり,五色台の南面から地質図作りをはじめました.10日程歩いた下旬に久野さんが来て下さり,2日間歩いてもらいましたが,最初一人で狭い範囲を歩いていたのを,2日共五色台を横断するような長いコースを歩いてもらい,はじめに全体の概要を理解することの大切さを教えられました.ちょうど桜の咲いている頃で,久野さんは国分寺のお遍路宿が気に入られ,仕事でなくもう一度来たいと云っておられましたが,翌年アポロの石が届いて間もなく癌に倒れられ再度讃岐に来られることはありませんでした.4年の時の授業では学生が論文紹介をするもので,私はD.H.GreenのLizard Peridotite の論文を読みましたが,鹿園氏が紹介したNagasaki (1966) のHoroman Peridotite の論文は自分も予習して,たいへん論理的でその不正確な点も明瞭に判るよう書かれており,かんらん岩の研究にたいへん興味を持ちました.火山岩をテーマにしながらかんらん岩の文献を読む機会を持ったのは後に初生マグマの問題を考える上でたいへん役立ちましたが,久野さんも当時かんらん岩の成因と火山岩の関係を考えようとして学生にかんらん岩の論文を読ませたのだろうと思います.またこの頃,中村保夫さんの学位論文でかんらん岩中のかんらん石のNiO 量が0.4wt.% で一定であるという話しを聞いて,学位論文のコピーをさせてもらいに行きました.
久野さんが亡くなったあと,しばらくして久城さんに指導教官になってもらいました.久野さんの講義でも久城さんの講義でも相平衡図の話しが 中心でした.その中で,Di-Fo-SiO2 系で高圧ではかんらん石の初相領域が狭くなるのに,Green, DH らは高圧での輝石の分別でアルカリ岩系列が生じるという議論をしていると云われたのを変に思い,授業の折,「マグマは浮力で上昇するのだから,かんらん岩の部分溶融で生じたマグマが上昇すれば,低圧ではかんらん石の初相領域が拡大して,かんらん石が最初に結晶するのではないか」と質問したら,その通りだと返事してもらったことを覚えています.1971年の春に久城さんに呼ばれ,金沢大学の山崎さんの処(地殻化学)で助手を募集しているが応募してみるつもりがあるか?と聞かれました.修士の途中までは研究を続ける自信がなくて公務員試験を受けたのですが,ちょうどその頃修論の仕事が面白くなって,そのまま博士課程への進学することにしていました.応募したところ金沢大に呼ばれてゼミで修士論文の内容を話したら,そのまま採用になり,論文なしで助手になりました(1971.5.25).今ではとても生き残れません.
金沢大の地殻化学はちょうどepmaが入ったばかりで,その管理維持の係になりましたが,実際は坂野さんと院生の森,小畑,諸橋,蔵田,長岡の諸氏がいれば,の内容でご迷惑のかけどおしでした.ともかく,坂野・山崎で元素分配論に関してはゆずらない処でしたから,門前の小僧で,自然と熱力学関係,元素分配論関係の初歩的な勉強をすることができました.大学ではオリジナルな研究をする処という意識はありましたが,論文を書かねばならぬ,という意識は全くなく,就職して4年論文は1本もありませんでした.最初の論文(石英の周囲の拡散コロナ)は岩鉱学会で口頭発表したのですが,その前にゼミで坂野さんに「失敗の教訓に学ばなければだめだ」と学生の前で罵倒されました.最初の学会発表(地質学会,Mg斜方輝石の成因)が準備不足で立ち往生したのに,このゼミでも原稿を準備しておらず再度立ち往生してしまったので怒られた次第です.お陰で以降立ち往生することはなくなりました.この仕事の原稿を書いていて,どうしても論理上心配だったのが,石英の周囲に濃集したアルカリが花崗岩の部分溶融液に由来する可能性でした.それでuphill diffusion を実験で確認する必要を感じ,小林洋二さんの実験室へ行って秋山君に1気圧炉で拡散の実験をしてもらってepmaで実際にuphill diffusion が生じていることを確かめてから安心して原稿をまとめることができました.Shewmonの輪講(小林さん)と1気圧の雰囲気炉がなければこの仕事はありませんでした.
2本目のかんらん石のNiを用いる初生マグマの判定法は,久野さんの初生マグマに関する問題意識に,久城さんの高圧相平衡関係,坂野さんの元素分配係数の扱い(交換平衡反応の有利さ),中村さんのかんらん石のNiO量一定という知識をあわせると自然に導かれたのものです.この仕事が比較的ポピュラーになったのは,かんらん岩中のかんらん石のニッケル含有量が一定で,ニッケルはかんらん石/液の分配係数が最大であり,さらに初生マグマが上昇して最初に晶出する結晶がかんらん石である,という3つの条件が揃ったたために単純な論理が通用したためかと思います.このことに気付いて4日間は至福の時でした.また,当時ニッケルの元素分配の実験が世界の主要なラボでおこなわれており,MITのHart and Davis (1978, epsl) で当方のLithos 論文が論理的な骨組みの一部として引用されたことも大きかったように思います.金沢大学には14年半近くいて,毎年数回地殻化学のセミナーで話しをしましたが,山崎さんが面白かったと云ってくれたのはこのNiの話(1975.12頃)の時一回だけでした. (2000.6.8)