『ブラックホールと時空の歪み』

キップ・ソーン著、林一、塚原周信訳、白揚社、5000円

                                

著者のキップ・ソーンは、世界的に著名な相対論的天体物理学者であり、かつ科学解説家としても優れている。最近NHKの「タイムマシン」と題する番組で、彼が主要な役割を果たしていたのは、ソーンがまじめな論文で、ワームホールを用いたタイムマシンの可能性を論じたからである。

 私が1965年に京大の大学院で相対論的天体物理学の勉強を始めたときに、もっともお世話になった教科書は、ソーンの書いたカリフォルニア工科大学のオレンジ表紙の分厚いプレプリントであった。当時ソーンは若干25歳であった。その仕事は後に「電話帳」とあだ名される大部の教科書「重力」に結実している。「重力」は、この分野における最善の教科書である。

 本書はアインシュタインによる特殊および一般相対性理論の発見から始まり、ブラックホールという概念の出現、その最近の研究に至るまでの歴史的経過をふまえた相対論的天体物理学の非常によい解説である。

 相対論を編み出した天才のアインシュタインがブラックホールという概念に最後まで抵抗したこと、相対論の良き理解者であった、英国の指導的天文学者のエディントンが、若きチャンドラセカールの提案した白色わい星の最大質量という概念に最後まで抵抗したこと、後にブラックホールという名前の提唱者になるホイラーが、始めはオッペンハイマーの提案したブラックホールの概念に反対したことなど、興味ある逸話が盛りだくさんである。

 本書は先にも述べたように相対論的天体物理学の非常によい歴史的記述となっている。評者が昔、勉強したことがすべて述べられており、ノスタルジーをそそる。もっとも初心者には、この本の良さがどれほど感じられるかは、評者には分からない。

 しかしながら本書には問題もある。本書はソーンというアメリカ人の目を通した歴史であり、私が「科学の欧米帝国主義」とよんでいる問題を含んでいる。ソーンは心の広い人であり、ここでいう欧米には旧ソ連も含まれている。しかし日本は完全に蚊帳の外なのである。本書で詳しく言及されている日本人は、ホイラーの弟子であり、ソーンの兄弟子であった若野省己さんだけであり、あとは中村卓史さんの名前だけが載っている。(ともに評者の京大時代の研究室の先輩と後輩である。)それに対してアメリカ人は、(当時の)学生に至るまでたくさんの記述がある。つまり本書は完全に欧米の科学者のインサイダー(彼にはそれが世界のすべてである)の歴史である。特にブラックホールに関連したX線天文学における日本の寄与がほとんど無視されているのは残念である。なげかわしいことに、日本人の若手研究者の中にも「科学の欧米帝国主義」のお先棒を担いでいる人もいるのである。

 訳は平易で読みやすい。しかし訳者あとがきでも述べられているように、欧米人の読み方に関しては、われわれの通常の読み方と異なるものも多く、多少違和感がある。たとえばサイアマ->シアマ、オストリカー->オストライカー、パクチンスキー->パチンスキー、ゼリドビッチ->ゼルドビッチ。また訳語で不適切と思えるものもあるが、これは原文に当たらないと、正確なことはいえない。これらは難しい問題であることは、評者も熟知している。しかし前に専門家に相談した方がよいであろう。