「「知」の欺瞞」、アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著、田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳、岩波書店、2000年5月、2800円、ISBN4-00-005678

 著者のソーカルはニューヨーク大学の物理学の教授であり、ブリクモンもやはりベルギー生まれの物理学者である。本書の内容は原題「ファッショナブルなナンセンス・・・ポストモダン思想における科学の濫用」に端的に表現されている。日本を含む世界の思想界に大きな影響を与えた、現代フランスの思想家であるラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリといった人々の著作、言説を批判的に検証し、かれらが数学や科学の概念を濫用していることを、膨大な引用を元に証明している。彼らは科学の言葉を盛んに引用するのだが、その内容をほとんど理解していないか、誤解しているかであり、本来の彼らの哲学や人文、社会科学的な主張を飾るためにだけに使っている(それも全く不適切に)ということを指摘する。


 本書の内容に入る前に、本書を書評するにいたった契機について触れておきたい。2001年のSceptics総会でパネルディスカッションに参加した科学哲学の高橋氏が評者に尋ねた。「ソーカルの「知の欺瞞」について物理学者としてどう思います?」どう思うも思わないも、恥ずかしながらソーカルも「知の欺瞞」も知らなかった。高橋、寿岳氏によると、ソーカルはソーカル事件を引き起こし、それは欧米の思想界にかなりな波紋を投げかけたそうだ。
 ソーカル事件とは、ソーカルがアメリカで人気の高いカルチュラル・スタディーズ誌「ソーシャル・テクスト」に、近年急増してきたタイプの論文のパロディ論文「境界を侵犯すること・・・量子重力の変形解釈学」を投稿して、出版されるかどうかを見たのだ。内容はばかげた文章と明らかに意味をなさない表現の固まりであった。しかしそれは受理されて出版された。ソーカルはすぐに、それがいたずらであることを告白したので、ジャーナリズムに嵐のような反響を巻き起こした。多くの賛成の手紙が寄せられたが、一方、批判された側からの嵐のような反論も巻き起こった。そこでソーカルは、本書を書くにいたったのである。


 本書の目的は著者によれば次のようなものだ。「われわれの目的は、まさしく王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘することだ。しかし、はっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは、社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要であると感じており、明らかにインチキだとわかる物について、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。特に、ある種のテクストが難解なのはきわめて深遠な内容を扱っているからだと言う評判を「脱構築」したいのである。多くの例において、テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだということを見ていきたい。」


 本書で著者が指摘するのは、ポストモダニズム、ポスト構造主義の識者たちが、自然科学用語を濫用していることである。彼らはろくに理解もしていない自然科学をあげつらったり、本当の意味も知らない科学的用語、あるいは自分が発明した疑似科学的用語を使う。彼らは自然科学の概念を何の正当化も無しに、人文科学や社会科学に導入して、自分の説の補強とする。


 たとえばトポロジー(位相幾何学)の大好きな精神分析学者のジャック・ラカンは、神経症の患者の構造は正確にトーラスそのものだと論じる。彼はそれがアナロジーであるとする考えすら拒否する。また彼はコンパクト性という数学の概念を突如導入する。「性的享楽の有界で、この場合閉である空間を覆うことのできる開空間があるわけだが、そうした開空間の証明可能な有限性は、いずれにせよ何を含意するのだろうか?・・・これこそまさに、性的享楽の空間においては生じることだ。そしてそうであるがゆえに、これがコンパクトであることが明らかになる。」いったいなんのこっちゃ?


 文芸評論、精神分析、政治哲学の論者ジュリア・クリステヴァは詩の言語というものは、数学に現れる連続の濃度の概念で理論的に記述できると主張する。「詩的言語を現行の論理的(科学的)手法で形式化すれば、・・・詩的論理を出発点として文学記号論が形成されねばならないのである。この詩的論理においては、連続の濃度という概念が0と2のあいだを包含しているのであり、この連続は、0が明示され、1が暗々裏に踏みにじられていることを表しているのである。」


 フェミニストのリュス・イリガライの著作は、精神分析学や言語学から科学哲学にまで及んでいる。彼女の方向は少し違う。彼女はエネルギーと質量が等価であるとするアインシュタインの有名な公式は、光速度を特権化しているので男性優位の方程式だと主張する。物理学において固体の力学が進展し、流体力学が遅れているのは、物理学の男性性にあるとする。固体は硬い男性器を想像させるので男性的だが、流体は経血や膣からの分泌液を想起させるので女性的であり、それゆえ軽視され、乱流理論が発達しないのだと主張する。


 社会学者であり、哲学者でもあるジャン・ボードリャールは現代の戦争は非ユークリッド空間で行われると述べる。「いちばんすばらしいのは、二つの仮説、リアル・タイムのアポカリプスと純粋戦争の仮説と、現実性に対する潜在的な勝利の仮説が、同じ時空で、同時に成立し、しかも互いに追いかけあっていることだ。これは、出来事の空間が多重に屈折するハイパー空間となったことの記号、戦争の空間が決定的に非ユークリッド的空間となったことの記号である。」ここでは専門的な数学用語を全く関係のないところで使っている。また「多重に屈折するハイパー空間」なるものは、数学にも物理にも現れず、ボードリヤールの疑似科学的発明品である。


 もっとも重要な現代フランスの思想家とされるジル・ドゥルーズは、単独であるいは精神分析家のフェリックス・ガタリと共著で二十数冊の哲学書を書いた。そこでもゲーデルの定理、超限基数の理論、リーマン幾何学、量子力学など科学の様々なテーマが登場する。しかし専門的知識のある読者から見れば、これらの議論は無意味であったり、理解可能なときは平凡で混乱した言明でしかない。1991年にフランスでベストセラーとなった「哲学とは何か」で、彼らは科学と哲学の差を論じている。「カオスに対して科学と哲学が取るそれぞれの態度に差異が認められる。カオスは、その無秩序さによって定義されると言うよりも、むしろ無限速度により定義されるのであって、そこ(カオス)においておおよその輪郭を現し始めるあらゆる形は、その無限速度とともに消散するのである。それ(カオス)は、ある空虚である--すなわち、無ではなく、ある潜在的なものであるところの空虚である。・・・可能な形とは、共立性(堅固さ)も準拠(指示)ももたず、結果も持たず、現れるやただちに消えるものである。それ(カオス)は、誕生と消滅の無限速度である。」ここでは彼らはカオスという言葉を通常の意味では使っていない。しかし同じ本の後の部分では、通常の意味で用いているのである。


 評者には、これらの言説はたとえてみれば、「不思議の国のアリス」の12章「アリスの証言」に出てくるナンセンスな手紙そっくりに見える。そこではトランプのハートのジャックがハートの女王のつくったタルトを盗んだとして裁判にかけられる。その証拠として挙げられたのがジャックが書いたとされる意味不明の詩体の手紙である。裁判長の王様は「これこそ、いままできいたうちでもっとも重大な証言だ」と言うのに対して、アリスは「だれか今の詩、解釈してくれるなら6ペンス上げるわ・・・そこにはひとかけらの意味もないわ(I don't believe there's an atom of meaning in it)」という。もちろんソーカルがアリスで、くだんのフランスの思想家が手紙の書き手であり、思想家の信奉者、擁護者がトランプの(少し頭の足りない)王さまである。


 思想家たちがそのような文章を書く理由は何か。それは、全く関係のない文脈に突如として科学の専門用語を投入することで、科学を知らない読者を感服させようという意図としか考えられない。それで識者やマスコミですらだまされてしまうのであろう。こうしてロラン・バルトはクリステヴァの仕事の精緻さに感服したし、ミシェル・フーコーはドゥルーズの著作を「大変な大作であり・・・いつの日か、時代はドゥルーズのものであるだろう」と褒め称えている。


 評者が本書を読んで感じたことは、知性というもののあやふやさ、不確かさである。現代フランスの、いや世界の最高の知性と目される人々が、どうしてかくもナンセンスな、無内容な文章を書くのであろうか。もし彼らが本当に言っていることが分かった上で読者を幻惑しようとしているなら(ソーカルがそうしたのだが)、知的詐欺師である。そうでないなら知ったかぶりの衒学趣味にすぎない。物理学者のファインマンがいったことだし、評者が修士論文を発表する大学院生たちにいつも強調していることだが、本当に理解しているという事は、難しい専門用語をひけらかすことではなく、主題を誰にでも分かる平易な言葉で解説できることだ。


 それにもまして、このような訳の分からない本を読んで、感心して彼らを祭り上げる識者、マスメディア、一般読者の知性とはいったい何なのであろうか。お経を読んで、何か分からないが、きっとありがたいことが書いてあるに違いないと思う心理とにている。もっともお経には本当は意味のある、ありがたいことが書いてあるのだが、彼らの著作はお経に似て非なるものである。(評者がきちんと読んでお経は般若心経だけであり、他のお経が同様に深い含意を持つかどうかは知らないことは告白しておく。)


 ポストモダン思想がはやったとき、日本でも一部の若手の学者、評論家たちが、流行のフランス思想を紹介したり、似た言説を吐いて評判になったり、アカデミズムで地位を確立したことがある。当時は若い女性のあいだで彼らの本を持つことがファッショナブルであったと聞く。まさにファッショナブル・ナンセンスである。ここで評者はN氏事件を思い出す。当時ポストモダン的言説で著名であったN氏を東大教養学部の教官に招こうと文化系教官が計画した。その人事は最終的には教授会で否決されてしまった。その理由はN氏の著作に、上に述べたと同様な自然科学用語の濫用があることを理科系教官が見つけたからであった。結果として何人かの著名な文化系教官が東大をやめることになった。N氏は現在は私立大学の教授になっている。


 評者は相対性理論は間違っているとする疑似科学的著作を批判的に検証している(「相対論の正しい間違え方」松田、木下著、丸善出版、2001年5月)。そこでは大学教授も含んで、物理学のアマチュアが、相対性理論の「間違い」をあげつらうのだが、評者から見て、彼らの議論はナンセンスのひとことである。しかし彼らはアマチュアで、相対論を論じる専門的訓練もされていないのだから、正しく理解できないのも、やむを得ないことだ。しかも彼らの理論は世界的にはもとより、国内でも一部の疑似科学愛好家を除いては認知されてはいない。しかし本書で取り上げられたフランス現代思想の大家はそれとは似ていて違うのである。言っていることは同様なナンセンスだが、世界的な名声を博しているのである。


 評者はここで別の感想をもつ。それは文系人間と理系人間、文系文化と理系文化の乗り越えがたい溝についてである。それは英国のC.P.スノーが言い出したことである。彼は第二次大戦中に英国の知的資源を調べる目的から、多くの知識人について調べた。その結果、知識人には文系知識人と理系知識人があり、後者はシェークスピアについては良く知らないが、前者は熱力学第二法則のなんたるかが分かっていない。そしてお互いに相手を無視して、ばかにしあっている。もっともくだんのフランス思想家たちは、理系知識をひけらかす意味において、理系文化を馬鹿にしているのではなく、むしろ尊敬して利用しようとしているわけだ。ただ、その知識を十分に理解できずに、誤って使っているのである。


 評者はソーカルとは異なって、フランス思想家たちの言説がそれほど有害だとは思わない。弊害としては印刷インキの浪費と、当該の学問の遅滞ぐらいであろう。ただのたわごとにすぎないものを、一部の文系人間たちがありがたがっているという事にすぎない。それを理系人間が、間違いだと叫ぶことは、よけいなお節介かもしれない。もっともそう思うのは、評者が日本にいるからかもしれない。アメリカの政治、社会、文化状況ではポストモダン主義は科学にとってもっと有害なものなのかもしれない。本書刊行後にソーカルに寄せられた賛意は多く文系人間からのものであったということは、その弊害が文系文化に固有のものではないことを示している。


 むしろ有害なのは、本書の批判の別のターゲットである、一部の科学哲学者、科学社会学者が主張する認識的相対主義である。ここでソーカルに習って相対主義について述べよう。認識的相対主義とは、現代科学は「神話」、「社会的物語」あるいは「社会的構築物」以外の何者でもないとする考え方である。その極端な立場では、客観的な外界は存在しないとか、天文学も占星術も同等の真理だという主張だ。


 現代の相対主義に関して有名なのはトーマス・クーンの「科学革命の構造」である。クーンは科学の活動の大部分を通常科学とよび、それは「パラダイム」の範囲内で行われるとする。通常科学はときどき科学革命と呼ばれる危機に突入し、そこでパラダイムの転換が起きる。たとえばアリストテレスの物理学からガリレオ、ニュートンの近代力学への転換、ニュートン力学から相対論、量子論への転換がそれに当たる。ここまでは常識的で科学者も異論は唱えない。問題はパラダイムの通約不可能性という概念に関してである。二つの競合する理論、たとえばニュートン力学と相対論があったとき、科学者はどちらが正しいか観測や実験に基づいて合理的に決めることができると考えている。クーンはそれにかなり否定的な見解を示す。われわれの体験は我々が信じている理論に根本的に条件づけられており、さらにその理論はパラダイムに依存するとする。極端に言ってみれば、天動説も地動説も同じように正しいと言うことだ。


 相対主義をさらに極端なまでに推進したのがファイヤアーベントである。かれは知的アナーキストであり、あらゆる方法論は限界を持つので、なんでもかまわない(Anything goes)と主張して、あらゆるものを相対化する。極端に言えば、物理学、天文学、歴史と、魔術、占星術、伝説は同等だと言うことになる。ソーカルはこういった一連の相対主義者を本書の中で批判している。


 もっとも評者から見れば(ソーカルも書いているのだが)ファイヤアーベントは極端な主張をしてはいるが、当人も自分の説を本当にどこまで信用しているのかは分からない。病気になれば、多分祈祷師に頼むのではなくて、病院に行くだろうと思う。むしろ極端な主張をすることで衆目を浴びることを狙っているのであろう。実際、それで彼は著名なのである。問題はその主張を真に受ける信奉者であろう。


 文頭で評者は恥ずかしながらソーカルを知らなかったと述べた。さらにいえばくだんのフランス思想家たちも名前だけは知っていたが、その著作の一編も読んだことはなかった。ちなみに評者がポストモダン思想とフランスの思想家を知ったのは、筒井康隆の小説「文学部唯野教授」における唯野教授の講義を通じてであった。この小説はさる私立大学文学部を舞台にして、教授たちのばかばかしい生態を描いたものである。大学関係者にとっては、とてつもなくおもしろい小説であるので一読を勧める。


 理系知識人は自分の仕事に忙しくて、哲学書まで読んでいる暇がないので、文化系の知識には疎い。その意味で評者は、物理学者のソーカルがフランス哲学などの著作を徹底的に読み、分析して、王様は裸だと叫んだ勇気と努力には敬服する。評者は先に人間の知性というものに疑問を呈したのだが、一方、たった3ヶ月でポストモダンの多くの著作を読み、そのスタイルをまねて、パロディ論文を書くことができたソーカルの知性に感心しないわけにはいかない。