「東大生はバカになったか、知的亡国論+現代教養論」
立花隆著、文芸春秋、2001年10月、1714円、ISBN4-16-357850-1

本書は著者が1990年から1998年にわたって文芸春秋に執筆した記事をもとに、加筆したものである。これらの論は、著者が東大で講演したり、東大の客員教授として見聞きしたことを元に書いたものである。ちなみに著者は東大仏文学科および哲学科の卒業であり、東大を嫌っているわけではなく、愛情から出た警告と思われる。

 書名になっている「東大生はバカになったか?」という設問に対する著者の回答は「歴史的にたどれば、昔から東大生はバカだった(あるいはバカに育て上げられた)のだ・・・それはもちろん基本的な知的能力を欠くという意味でのバカではなく、コンドルセが教育の目的として述べている「教育の目的は現制度の賛美者をつくることではなく、制度を批判し改善する能力を養うことである」という言葉にてらしてバカ(そういう達成目標に到達できなかった)といっているわけだが、実は、最近の調査によると、東大生の中には、本当の単純バカが相当程度出てきているらしいということを知って、私はかなりショックを受けた」という文で要約できる。

 ここには二つの違った論点がある。「東大生は昔からバカだった」というのは、制度としての東大の問題である。ここでいう東大生とは、日本の官僚組織を担う人材を生産してきた、主として東大法学部のことといってよい。 「本当の単純バカが出てきている」というのは、実は東大に限ったことではなく、日本の大学生全体の学力低下、さらには初等中等教育における生徒の学力低下の問題である。

 東京帝国大学の教育法は、たとえば明治時代に東大生であった大内兵衛が回顧しているように、教授は講義ノートを読み、学生はただひたすらそれを筆記し、暗記するだけであった。それなら本を読めばすみそうだが、ときどきダジャレが入り、それが試験に出るので、学生はひたすら筆記するしかない。終戦直後にアメリカから視察に来たイールズは「日本の大学の学生は教室の座席にずっとおかれた「湯飲み」のようなものであり、教師は「土瓶」から知識を「湯飲み」につぎつきに、その容量を無視して注いでいるようなものだ。」また東大の教育法を京大のものと比較すると、「元来、東西両大学はその主義を異にせり。京都大学は自由探求を主義とし、これに対して、東京大学は圧制填込を主義とせり。京都大学においては、授業時間外の時間こそ貴重の時間にして、その間に内外の参考書を渉猟し、自由にかん味し、自由に探求して、新知識を補足することを得るなり。」このようにして、東大法学部では湯飲みが量産されてきたと、著者は批判するのである。

 現在の大学生の学力低下については、大学教官の多くが実感として体感しており、またそれを証明した本もある。予備校の調査でも、それは定量的に証明できる。著者はその原因を文部省の政策に求める。文部省は「ゆとりの教育」に象徴されるように、一貫して初等中等教育における授業時間、内容の削減に努めてきた。また大学入試の科目数の減少、教養部の廃止などあいまって、昨今の大学生の学力低下、教養のなさがもたらされたと警告を発する。もちろん、文部省は日本の小学生から大学生にいたる生徒、学生の学力低下は存在せずと主張し、現在の政策をさらに推進する構えにある。一方、現場の教育者の多くはそれに懸念を示しているという事実がある。

 評者の本書に対する感想は、まったくごもっともですという以外にない。