よい講義法を求めて

 

プレゼン道の研究を進めた私は、昨今はよりよい講義法という問題の研究を始めた。まだ始めたばかりであるので、ここではホンの一端に触れることにする。

 

1.大学の講義はおもしろくない

 学生たちに、よい講義、悪い講義についてのアンケートを採ってみた。そうしたら、予想どうりというか、大学の講義は大部分がおもしろくないと言う結果がでた。もちろん、おもしろい講義をする先生はいる。しかし、それは数え上げることができる程度で、他の大部分の講義は基本的にだめだという。その原因は、基本的には二つある。教官側の問題と学生側の問題である。

 まず学生側の問題について触れる。すべての講義がおもしろくないと答えた学生がいた。しかし、他の多くの学生は、おもしろい講義や、講義の上手な教官をいくつかは上げているのであるから、この学生は、そもそも勉学意欲が乏しいと断ぜざるを得ない。講義中眠っている学生がいた。その理由は、アンケートによれば、昨晩、中国語の勉強 (麻雀のこと)で徹夜したからだという。こんな学生には、どんなおもしろい講義をしても、役に立たない。

 すでに多くの人に言われていることだが、大学は入ることが大変で、いったん入ったら、ふつうにしている限り、ほぼところてん式に卒業できるシステムになっている。それでも、留年生が非常に多いのは、いかに学生たちに勉強意欲がなくなっているかという証拠である。しかし、この問題は社会のシステムにも関係する非常に根深い問題であり、ここでは論じない。

 

2.日本の大学教授は教授法の素人

そこで教官側の問題のみを論じる。大学の講義がおもしろくない理由の第一は、大学教授(助教授や講師も含む)が、教授法の素人であるからだ。そもそも日本で大学教授になるには、試験も資格もない。いっぽう、小中高の先生になるには、資格が必要で、そのうえに試験もある。つまり小中高の先生は教授法のプロである。さらにいえば予備校の先生は、もっとプロである。彼らには資格も試験もないかもしれないが、教授法が下手と学生たちに判定されると、首になる可能性もある。

大学教官になるには、普通は審査がある。神戸大学の理学部では、基本的には公募方式をとっており、厳しい審査が行われる。しかしその審査は、すべて研究業績に関することである。地球惑星科学科では論文数と、論文の引用数をチェックしている。さらに推薦状も重視する。しかし、そこには教育能力というファクターはほとんど考慮されていない。それでも大学院生を育てたかどうかは、考慮の対象になりうる。しかし学部の講義の能力、学生に人気があるかどうかなどは、いっさい考慮されない。これではよい講義をする教官が少ないのは当然である。

人を教育する基本は、”Reward””Punishment”つまり「あめとむち」である。大学教授の教授能力に関しては、この「あめとむち」が存在しないのである。教授を教育するにも、この「あめとむち」が必要と考える。

 

3. ドイツでは教授は教授法の玄人?

日本の教授は教授法の素人である。なぜなら資格も試験もないからであると述べた。しかしドイツにいる若い友人の話では、ドイツでは事情が全く異なるという。資格も試験もあるのだ。その試験とは、分厚い論文を書くことと、学生の前で50分程度の初歩的な講義をすることである。よい研究者であれば、論文を書いてパスすることは問題ではない。しかし問題は、よい講義をできるかだ。

その若い友人は私の学科を卒業後、ドイツのさる研究所に留学し、そこの大学院で学んでいる。その指導教官は45才の気鋭の研究者である。しかし教授ではない。かれは教授資格試験を受けることにした。論文テストは、難なくパスした。彼は論文をたくさん書いている、とてもアクティブな研究者だからこれは当然だ。問題は授業の試験である。試験の当日、前には6名の教授の試験官がならび、その後ろに数十人の学生がいる。ここで初歩的な講義をして、その講義法を試験官が採点するのだ。その研究者の使うトラペは普段、その学生がコンピュータを使って作っている。ところが今回は試験だから手伝わなかった。するとその研究者は汚い手書きのトラペを取り出した。

このような試験は、普通は形式的なものだから、その研究者も周りも合格を確信し、親族縁者、研究所員を集め、レストランからシェフを雇った大パーティーを行って、成功を祝った。しかし1ヶ月後に州の教育委員会から発表された結果は不合格。周囲の意見や、その学生の反省では、教授法がなっていないという。私が「プレゼン道入門」に書いた、プレゼンでやってはならないことのオンパレードであるという。そこでその研究者の奥さんは、学生にプレゼンの仕方を先生に教えるように頼んできた。さすがにそこまではできかねると、彼女は断り、代わりにトラペを彼女が先生に代わって密かに作ることとした。

 ドイツの学生は怖い。ちょっとでも授業がひどいと直訴するだけではなく、あの手この手を使って講師を地獄にたたき込む。ドイツ社会では「大学卒」というのではなく、「大学の卒業成績」が将来のキャリアを決めるので、学生も一つ一つの講義に対して必死である。それで教授たちも鍛えあげられる。

もっとも件の研究者の教授試験の後日談がある。その人は2回目の試験には何とか合格したそうである。しかし彼がいうには、「自分がよい研究をすることが、よい教授になる道である。」私にいわせれば、相変わらず全く分かっていない。大学院の指導ではそうであろう。しかし学部教育におけるよい教授とは、よい研究者のことではない。よい教授法を身につけた教授のことである。

その教授の講義は相変わらずひどいという。自分は予告なく遅刻するのに、学生が遅刻すると単位を与えないそうだ。全く人間性に問題があるといわざるを得ない。学生に背後からナイフで刺されないかと、研究所では心配しているという。実際、学生は件の教授に関する不満を学科長に告げ、学科長は教授を叱責したという。そのため教授は不機嫌で周りに当たったそうだ。

最近、ドイツの研究者と教授昇格試験の話をした。すると彼がいうには、教授になる最も重要なファクターは、教授法の上手下手よりは、人間関係つまりコネであるという。やはりドイツも人間の社会である。

 

4.報われない教育

 日本の大学教官に要求される仕事は、教育、研究、管理である。しかし、私が知る限りの主な大学の教官は、自分の仕事は研究であると信じている。教育、とくに学部の講義は、雑用であると断言する教授もいた。そのためその教授は教育を徹底的に手抜きすることを生き甲斐にしていたほどである。

 この例は極端かもしれないが、しかし実状は大同小異であると思う。なぜ教育が雑用と感じられるのか。それは報われないからである。よい研究をすれば、有名になる、昇進もできる、科学研究費などの研究費が潤沢になる。

 管理的な仕事、たとえば学科長、学部長、学長、種々の学内委員会の委員、学会活動、政府の審議会委員などは、教官は雑用と呼んでいる。しかし、これらの雑用には権力が伴う。そして権力に付随して、研究費や研究条件が潤うというメリットがある。つまり研究と管理は、報われるのである。

しかし教育、特に学部教育は全く報われないのだ。つまり教官には、よい講義をするための動機、インセンティブがほとんど存在しないのである。これではよい講義ができるはずはない。人を教育するには「あめとむち」が必要である。教授に対してもそれが必要であろう。

 

5.授業評価

東大理学研究科の物理学科では、教官の審査を学生のアンケートで行っているという。その結果は匿名で張り出され、当人には結果が通知されるそうだ。日本としてはなかなか思い切ったシステムであると思う。しかし、結果がどうであれ、給料や昇進に響くわけでもないので、結果の悪い人は居直っているそうだ。

過日、東京工業大学の地球惑星科学教室の教室発表会によばれた。これは研究室の日頃の成果を、教官と学生が口頭とポスターで発表する会である。これは外部評価をもかねており、4人の外部評価委員が呼ばれた。私はプレゼン道の講演と、ポスター論文の審査をおこなった。ところでこの教室発表会の特異なところは、学部学生による教官の授業評価である。これは先の東大の例とは異なり、学生が作った評価書を、教官、職員、学生、外部評価委員のいる発表会で、実名をあげて公表するのである。評価項目は以下の通りである。

評価1.板書は丁寧で見やすかったですか?

評価2.講義に対する真剣さは感じられましたか?

評価3.話は聞き取りやすかったですか?

評価4.駆け足になることなく時間配分は適当だったと思いますか?

評価5.説明は理解しやすかったですか?

評価6.講義を受講して満足できましたか?

これらの項目に対して、学部学生は各講義ごとに評点をつけ、その得点、 ベスト3とワースト3を、学生の代表が教官の実名入りで報告するのである。これには、私も外部評価委員も正直言って、度肝を抜かれた。と同時に、この試みは外部評価委員によって非常に高く評価され、この試みを全国の大学に広げるべきであるという講評がなされた。さらにその評価書は外部に対して公表すべき(ただし教官名はA,B,Cなどにして)ことが要求された。ともかく東工大の地球惑星科学教室は、研究業績も教育も、外部評価委員から極めて高い評価を受けたことは、容易に想像できるであろう。

 先に教育には「あめとむち」が必要であると述べた。学生による、これほどまでの授業評価は、教授を教育する強力なあめとむちになるのではないであろうか。たとえ給料や身分に響かなくてもである。というのは、教育心理学において、子供を教育するためのあめとしては、物質的なものよりも名誉のほうが重要であるとされているからである。つまりほんとうに「あめ」をやるよりは、みんなの前で誉めることのほうが効くというのだ。教授を子供にたとえるのは失礼かもしれないが、私を含め、どうせそんなものであろうと思う。

 

6.よい講義と悪い講義

 それではよい講義をするにはどうすればよいだろうか。私の学生のアンケートから、悪い講義、教官の典型を見てみよう。よい講義法とは、この逆をいけばよいわけだ。

 

6.1 板書ばかりして、しかも黒板に書きながら話をする教官。

 これは学生の筆記スピードが追いつかないと言う問題がまずある。学生をコピー機代わりに使っているのである。つぎに筆記しながら、同時に話を聞くことは困難である。さらにアイコンタクトができないという問題がある。そこで、良い方法とは、板書するときは黙って書く。書き終えたら学生の方を向いて、筆記が終わったことを確認してから話し出す。そのときに学生の目を見て話す。

 

6.2 教官の人間性の問題

 ある英語の教官は「私は理学部の学生は嫌いです」と宣言してから、講義を始めたという。またある教官は、自分は遅刻してきたのに、それ以後に遅刻してきた学生を怒鳴りつけて説教したという。これらの教官は学生に徹底的に嫌われている。従って、教授力も低くなる。先生が好きかどうかで、科目が好きになるかどうか決まるというのはよくあることだ。

 

6.3 頭の良すぎる教官

 自分の頭の中で構築した難しい論理を、学生は理解できるはずだと仮定して、さらさらとしゃべり、急速に板書していくと、学生は理解できない。私の経験でも、頭がよいと感じた教官の講義は難しく、逆に感じた教官の講義は実に分かりやすかった。

 

6.4 講義、科目に自信も情熱もない教官

 これでは学生もやる気を失うのは当然であろう。逆に科目に自信と情熱をあふれさせた教官は、たとえ教授法が下手でも尊敬されるのである。

 

6.5 適度な雑談をしない教官

 始めから終わりまで、講義ばっかり、特に板書ばかりでは、学生も息抜きができないだろう。もっとも、全部雑談にしてほしいなどと言う、ふざけた学生もいた。しかし雑談はスパイスであり、スパイスばかりの料理など食べられない。

 

教授法の研究は始めたばかりで、現在得られた中間結果を報告するにとどめる。