大和巻頭言「日本人はしゃべれない」

松田卓也

 日本人は人前で話す事が苦手であること、その理由と具体例、それでは国際化社会で後れをとること、人前でうまく話すポイントなどについて述べる。

「日本人はしゃべれない」という題の特集記事が雑誌「アエラ」にあった。私が日毎、考えていることであったので、早速買って読んだ。人とうまくしゃべれないために、失職した若者の話から始まっている。しゃべるといったとき、独り言を除けば、大きく二つに分類できる。まず家族や、友達、仲間としゃべる内輪の話、それに人前でのしゃべり(パプリック・スピーチ)に分けて考えることができる。日本人が下手なのは後者、つまり人前での話である。アエラ冒頭の話は、内輪の話すらできない若者のことで、これはかなり特殊な例と言ってよいであろう。

 人前での話とは、ピンは国際会議、学会講演、外交交渉、社外交渉からはじまり、セレモニーでの挨拶、内部の会議、セミナーでの発表、キリは結婚式やパーティーでのスピーチなどである。日本人の多くは西欧人に比べて、このパブリック・スピーチが徹底的に下手である。日本人の話は、1)前置きが長い、2)いいわけが多い、3)くどい、4)長い、5)なにを言いたいのか結論がなかなか分からない、6)結論が明瞭でない、といった特徴を持っている。

 その原因は三つある。日本語の構造、日本社会の構造、教育の不備である。

 日本人の話が、なにを言っているか、よく分からない第一の理由は、日本語の構造に関係している。英語などの西欧語では主語があり次に述語がくる。私は、食べる、食事を、という順である。この述語は、いわば話の結論であり、西欧語では結論が先に来る。しかし、日本語の場合、述語は最後にくるので、話を最後まで聞かないと、結論が分からない。この日本語の構造にならされた日本人は、話の組立方もそのようにする傾向があり、従って、言いたいこと、結論を話の最後にもってくる傾向が強い。人の話をじっくり聞ける場合は、それでもよいが、この忙しい世の中で、長々、ぐたくたと、なにを言いたいのか分からない話につきあわされるのはごめんである。

 私は学生にも家内にも言っている、「結論を先にいえ、結論を」、「要点をいえ、要点を」である。話の構成法についてもっと詳しく言うと、話はまず結論を先に持ってきて、次にその理由を言う、最後にまた、結論を繰り返し言って印象づける。それから結婚式のスピーチなどに多いスタイルだが、ぐだぐだと長い話が多い。ここではKISSの法則について言っておこう。Keep it short and simple.である。「話は短く簡潔に」ということだ。Keep it short, stupid!ともいう。「手短に話せ、バカ」である。

 日本人がパブリック・スピーチが不得意な理由の第二は、日本社会の構造に深く根ざしている。村社会というやつである。そこでは、お互いが知り合いであり、共通の認識というやつがある。従って、「あのあれをなにしてくれ」といった、訳の分からない話でも通じるのである。あうんの呼吸とか、腹を割った話とか、行間を読むといった言葉に象徴されるような、相互認識ができている社会では、日本的話し方でも通じるのである。しかし、国際社会ではそうはいかない。認識のずれがあるから、ものごとは、はっきりと言わねばならないのである。そこを察してちょうだいといったことは成立しないのである。特にアメリカのような移民社会では、民族間の共通認識部分は少ないから、物事をはっきりと言わないと理解されないのである。そこでパブリック・スピーチでは、用語の意味とか、話の前提、結論などは明瞭にはっきりという。暗黙の了解に期待してはいけない。

 第三の理由は、第一、第二の理由と関係するのだが、日本人は家庭でも学校でも、パブリック・スピーチの訓練を全く受けていないことである。パブリック・スピーチだけにとどまらず、人とのコミュニケーション一般の技術の体系的な訓練を全く受けていない。たとえば、書くことからしてそうである。日本の学校でも、もちろん作文の訓練はある。しかし、この作文たるや、文学的なものを目標としているようで、書いた当人の感動とか印象を述べることは強調される。しかし、事実を分かりやすく記述するという、実務的な文章の訓練はあまりなされていない。一般の社会生活で要求されるのは、報告書のたぐいの実務的な文章である。私の世界で言うならば、英語、日本語の論文の文章である。ここで必要なのは、感動とか印象ではなく、事実と意見をきちんと分けて、明瞭に記述する技術である。書き方の訓練がこのようにお粗末であるから、話し方、聴き方の訓練に至っては、ゼロであるといってよい。それにたいして、アメリカの大学では、話し方、討論の仕方などの授業があるのだ。

 私はそのことを最近特に強く認識するようになり、研究室の学生、院生にスピーチ、プレゼンテーション、英語の訓練を施している。また作文に関しては、授業で出席を採る代わりに、毎回書かせている。最近出された大学審議会の答申案においても教養教育の充実に関して次のような記述がある。「社会生活を送る上で身につけておくべき基本的な知識と技能を収得させる。例えば、日本語及び外国語による文章作成、ディスカッション、スピーチ、プレゼンテーション等の訓練、コンピュータ・リテラシーの育成、数量的科学的思考法・・・。」全く我が意を得たりである。しかし、ということは、これらのことは従来の学校教育において、全くなされてこなかったと言うことを意味するのである。

 政治家を例にとって、パブリック・スピーチにおける日本と欧米の差を見よう。日本人の下手なパブリック・スピーチの典型的な例が政治家の話である。冒頭のアエラの記事の次の記事は、小渕首相の言葉、小渕語の分析であった。彼の言葉は、長々しいけれど、意味が希薄で、論旨が次々と移り変わり、英語に翻訳するのが難しく、よけいな修辞を除くと、きわめて短くなってしまうという。記事では論旨が次々と飛躍する様を、あみだくじ語と揶揄してあった。これで早稲田大学雄弁会の出身かと聞くとあきれるとも書いてあった。

 日本の政治家の話は、極言すればすべて嘘であるといってもよい。そこまで言うのは言い過ぎだが、彼らの話は建前にすぎず、本音ではない。本音は料亭での仲間内の語らいで話されるのであり、パブリックな場では、建前しか言わない。だから聞いている方もそう思うし、おもしろくないから、真剣に聞く気もないのである。

 アメリカのABC放送や英国のBBC放送のニュースを衛星放送で聞くことがある。クリントン大統領やブレア首相の話は、実に明瞭で分かりやすい。彼らはパブリック・スピーチの訓練を徹底的に受けているようだ。イギリスの国会討論を見ていても、本音の応酬で実におもしろい。クリントンやブレアをパブリック・スピーチのプロとすれば、日本の首相や実力者と言われる人たちは、料亭におけるプライベート・スピーチのプロといえるであろう。

 アメリカのディベート番組でも、彼らは論争の訓練を受けているので、論点が分かりやすい。彼らの話し方は、「私の意見はこうである、その理由は三つある、1,2,3」といった仕方である。つまり結論が先に来ている。日本のディベート番組、たとえば「朝生ま」などは、話の要点が分かりにくい上、人が話しているのに平気で割り込んだりと、論争のモラルがなっていない。

 アイコンタクトの重要性について述べよう。話しているときに相手の目を見ることをアイコンタクトといい、スピーチ、プレゼンテーションでは説得の重要なポイントである。西欧の政治家、報道官の発言を見ると、きちんとカメラとか質問者の方を見て話している。ところが、このアイコンタクトは日本の習慣にかけているものである。人の目を見つめようものなら眼をつけたといって、殴られることすらある。したがって、我々は人と話す場合に、じっと相手の目を見ると言うことが難しい。しかし西欧では、人の目を見て話さないことは、不誠実とかうそをついている、自信がないと見なされ、失礼なことなのである。この文化の差は大きい。日本のある社長が中国の朱首相と握手している写真があった。朱首相はなかなか西欧的なセンスの人らしく、社長の目を見て握手している。ところが社長は、満面の笑みをたたえて、あらぬ方向を見て握手しているのである。これでは、こいつは笑っているが信用ならないと理解されても不思議ではない。

 アイコンタクトの重要性は、単に礼儀の問題だけではない。説得力と密接に関係しているのである。説得の天才ナポレオンは、人を説得しようと思えば、目に話しかけろと言った。サッチャー首相は、演説と説得力で首相の座にまで上り詰めた。彼女が人と話すときの様子をビデオにとって分析すると、80パーセントの時間、アイコンタクトをしているという。

 ここでの結論は、外国人と話すときは目を見て話そう、パブリック・スピーチでは聴衆の方を向いて、目を見て話そうということである。これがグローバルスタンダード(個人的には好きな言葉ではないが)である。日本人の学会講演に多いスタイルだが、講演者はOHPに乗せたトランスペアレンシーの内容が映っているスクリーンに向かい、レーザーポインターかなんかで指し示しながら話している。顔を聴衆の方に向けようとしない。これでは説得力はない。アイコンタクトがとれないからである。外国でこのスタイルで話すと、聴衆は一人去り二人去りと、いなくなってしまうであろう。講演をするときには、聴衆の方を向いて話そう。これはプレゼンテーションの鉄則である。私は研究室の学生にアイコンタクトの練習として、二人を組にして1分間、にらめっこさせることにしている。

 原稿やメモを読むとアイコンタクトを取るのが難しいこと、従って話に説得力が欠けることについて話そう。小渕首相もそうだが、日本の公人のスピーチの欠点は、(官僚の書いた)原稿を読んでいることである。原稿を読むと、視線が下を向く。するとアイコンタクトがとれず、自信がないように見えて、説得力に欠けるのである。小渕首相は原稿を読みながら、リーダーシップとか言っても説得力がないのである。

 ところで米大統領でも演説するときには、実は原稿を読んでいるのである。しかしレーガン大統領は、プロンプターという、原稿が聴衆からは見えないが当人には見える半透明鏡を使って演説した。そのために視線は聴衆の方を見ているのである。クリントン大統領の演説を見ても、原稿は読みながらも、視線はできるだけ聴衆の方を向いている。このように彼らは徹底的な訓練をしているのである。原稿を読んで、説得力ある話をするのは、そう簡単なことではない。訓練を必要とする。

 プレゼンテーションの本を読んだときに、日本のパブリック・スピーチの悪い例として、山一破綻の際の記者会見が上げられていた。記者会見したのは当時の三塚蔵相、松下日銀総裁、山一の社長であった。まず日本の記者会見の問題点は、回答者が椅子に座り、記者が立っていることにあるという。すると、記者から見下ろされる関係になり、回答者がよけい弱い立場に立たされる。アメリカでは大統領や報道官は立っていて、記者が座っている。視線の上下関係は説得力に関して重要なファクターである。先の本によれば、三人の中で社長の話は一番ふつうだが、最後の号泣は日本はともかく、世界では通用しないと言う。三塚蔵相は政治家であり、一応話はできる。最低は松下日銀総裁である。彼は部下の書いたメモを読んだだけである。これが日本の公人の典型的な、そして最悪のスピーチスタイルであるという。

 日本人がパブリック・スピーチが下手な例とその理由について述べた。日本だけで閉じていた時代では、それでもよかったであろう。しかし、これからの国際化時代では、パブリック・スピーチが下手なために、外交交渉においては、外国に丸められる、国際会議では、話をよく分かってもらえないため、内容を正当に評価してもらえない、などの弊害がある。商売でうまく売り込むためにも、会議で自分の意見を聞いてもらうためにも、パブリック・スピーチの練習は、これからのグローバル・スタンダードが支配する世界では決定的に重要になるであろう。

 ともかく、本小論で私が言いたいことをまとめると、1)日本人はパブリック・スピーチが下手である、2)しかしそれでは、これからの国際化時代をわたっていけない、3)従ってパブリック・スピーチの訓練が必要である、4)具体的には、話の構成は結論、本論、結論の構成にする、5)話は要領よく簡潔にまとめる、6)アイコンタクトをする、つまり相手の目を見て話す、7)原稿は読まない、などである。