1.空中浮揚とオウム
昨年はオウム真理教で大騒ぎであった。ある本で、オウムの信者ははたかだか1万人くらい しかいないが、それでも友達の友達くらいにはきっとオウムの信者がいるであろうと書い てあった。私の場合もそうである。私は宇宙物理学を専攻しているが、かの村井「科学技術省大 臣」も阪大で宇宙物理学を修士課程まで専攻したという。彼の専門はX線天文学で、観測 機器の制作を行ったという。だから彼の指導教官は私の知り合いであるし、彼の同級生も私 の知り合いである。彼が修士でやめずに博士課程へ進学し、X線天文学の道を歩んでいた ら、私の知り合いにもなっていたであろう。知能指数が200という恐るべき値だったそうだ から、きっとひとかどの研究者になっていたであろう。もっとも世間に対する知名度とい う点では、研究者ではたいしたことはなかったかもしれないが。
サリンを実際に作った土屋は、筑波大学の修士課程のときに、指導教官と連名で英語の論 文を発表した。遠藤も京大大学院の博士課程にいた。上祐も早稲田の理工系の 大学院を卒業した後、一時は宇宙開発事業団にいた。弁護士の青山は、理工系では ないが、京大在学中に司法官試験に通ったという秀才であった。京大では経済の浅田彰、 法の青山といわれたこともあると聞く。
どうして大学院まで行ったような、このような秀才がオウムにはまっていったのであろう か、さまざまな議論をよんでいる。そのひとつのきっかけとして、麻原が行ったという空 中浮揚があるとされている。当時出版された雑誌「ムー」の写真を彼らが見たことがきっ かけだという。するとムーも罪作りなことをしたものである。前代未聞の犯罪のきっかけ を作ったのだから。関係のある出版社や雑誌の編集者は、オウムのことを語るのをタブー視し ているとは聞くが、反省しているとは聞かない。なぜならあいかわらず同じような記事を 載せているからだ。
ところであの「空中浮揚」の写真を見ると、麻原の顔が力んでいることに気づく。オウム の作ったアニメでは、麻原は涼しい顔をして空中浮揚しているが、写真はそうではない。 だから実際はぴょんと飛び跳ねた一瞬を写真に撮ったものであろう。ようするにトリック 写真の一種である。オウムのことが話題になってから、あの種の写真は、弁護士や芸人、 テレビのアナウンサーなど、だれでも撮れるようになった。彼らは麻原よりも高く「浮揚」 している。小学生の間でも「空中浮揚」は流行したという。水中クンバカと称する、水中 で息を止めて長時間潜る行も、芸人のほうが麻原より長時間できるので、麻原に挑戦した と、スポーツ新聞に書いてあった。
ようするに麻原のいう「超能力」はトリックであったり、あたりまえのことであったりに すぎない。実際、麻原は講演会などで空中浮揚を求められると、その場の気が悪いとかな んとか、かならず逃げを打っている。これなども、世間のインチキ超能力者とにている。 そもそも、アニメにあったように、麻原が空中浮揚や壁を抜け出して外に出るような超能 力を持っているなら、どうして警察に捕まったままなのか知りたいものだ。さっさと超能 力で逃亡すればよいのにと思うのは信者ばかりではなかろう。
そもそも「空中浮揚」などできないことは、別に物理学の難しい理論など持ち出さなくて も、常識であろう。その常識が大学院卒業のエリートに欠けているのである。彼らは、そ してまた多くの受験秀才たちはたしかに多量の「知識」はもっている。しかし「知恵」と 「常識」の持ち合わせが少ないのであろう。このような常識の欠如が、これから述べる疑似科 学の一番の根っこであると思う。
オカルト、超能力、超常現象などをもてはやす世間の雰囲気が、彼らの健全な常識を育て なかった側面がある。この雰囲気はマスメディアが作り上げたものであるので、マスメディ アに大半の責任がある。テレビや雑誌には、超能力、超常現象、UFOなどの疑似科学関 係の番組や記事があふれている。これらの制作者には、個人的にはそれほど悪意はないの かもしれない。しかし、彼らは視聴率を取れればよい、売れればよい、儲かればよいとい う商業主義に、どっぷりとはまっているのである。それはオカルトを信じ込む雰囲気を作っ たという点で、オウムの犯罪の片棒をかついだといえるであろう。実際、テレビはいっぽ うでオウムを激しく糾弾する番組を作りながら、他方ではオカルト番組を作ってきたとい う矛盾を平気でおかしている。そういえば、昨今はこの種のテレビ番組は少なくなってい るようだ。オウムの犯罪の下地を作ったという批判に対して、首をすくめているからであ ろう。本当に反省したのならけっこうなことだが、しかしほとぼりが冷めたら、またやり だすであろう。
2.疑似科学に反対するJapan Scepticsとインチキ超能力
超能力だとか超常現象、UFO、ミステーリーサークルなどは、ひとくくりにして疑似科学と か超科学、似非(えせ)科学とよばれている。ここでは疑似科学という言葉を用いること にする。疑似科学とは科学の装いをこらした非科学である。世界的にはこのような疑似科 学を批判する科学者たちの集まりがたくさんある。かのカール・セーガンなどもその一翼 を担っている。日本でも外国からのよびかけにこたえて同様な団体「Japan Skeptics」 (ジャパン・スケプティックス、会長、寿岳潤東海大教授)が作られた。スケプティック とは懐疑的な人、疑り深い人のことである。この会の目的は疑似科学を批判的に検証する 会である。学者、良識的なマスコミ人、学生、一般市民が会員である。寿岳さんはもとは 国立天文台の教授で、天文学者である。私も宇宙物理学の専攻であり、宇宙関係の学者に この方面に関心を持っている人が多いように感じる。
ところで寿岳さんは、地球外生命の探索を行う、いわゆるCETIの活動も、国際天文連合という 権威ある学会を通じて行っておられる。私も実は、その方面に関心がある。このことは後に 述べるUFOと関連して重要であるので、ひとこと付言しておきたい。つまり多くのまじめな 天文学者は地球外生命の存在は信じている。しかしそれがUFOという形で、現在、地球に来 ているとは信じていない。
その会報はとてもおもしろいものであった。私が一番おもしろいと思ったものにアルファ・ プロジェクトがある1,2。これはアメリカのランディという奇術師が超能力研 究のインチキ性をあばいたプロジェクトであった。ランディは弟子の若い奇術師を超能力 者といつわって、ワシントン大学マグダネル心霊研究室に送り込んだ。研究所の研究者た ちは、まじめな研究者であるが、実験の科学的検証が乏しく、すっかり奇術師にだまされ て、彼らを超能力者と認定した。ランディは研究室長に、いかにしたらいかさまや奇術を 防げるかを、あらかじめ忠告していたにもかかわらす、所長はその言葉を無視した。その 奇術師たちはすっかり有名になってマスコミにも登場した。奇術師たちがもっとも心を痛 めたことは、まじめな視聴者から人生相談などを持ちかけられたことであったという。奇 術師たちはけっして見破られることがなかった。そして何年もたってから、実はあれは奇 術であったと告白したのである。
ランディは例のユリ・ゲラーや清田青年の「超能力」もきちんとあばいている。そのため ランディはユリ・ゲラーに訴えられている。オウムといいユリ・ゲラーといい、都合が悪 くなると訴えるというのは、洋の東西を問わず常套手段であるらしい。ところで先日ビデ オ・レンタルで借りた「刑事コロンボ'90、超魔術への招待」(1989年ユニヴァーサル作品) はおもしろかった。エリオットという「超能力者」の能力が本物であれば、軍事に利用で きると考えたCIAなどが、テストを超能力研究所に依頼する。テストするのは、ランディを 彷彿とさせる魔術師マックスである。超能力のインチキ性を知るマックスはエリオットに 殺されてしまうのだが、そのトリックをコロンボが例のごとくねちねちと暴いていく。そ のなかでエリオットの「超能力」がいかに巧妙なインチキであるかが、観客にだんだんと 明らかにされていくのである。これなどはきわめて教育的な作品であると思う。
私は超能力なるものは、一種の手品、奇術、魔術であると考えている2,3。われ われが手品を見る場合、それは手品であることをあらかじめ教えられている。だからいか に常識に反する事を見せられても、その技術を賞賛しこそすれ、超能力とは思わない。種 があることを知っているからである。しかし、それが始めから超能力者であるというふれ こみならどうであろうか。とてつもない超能力と見えるであろう。世の超能力者は大した ことがない手品師、奇術師であると思う。現にユリ・ゲラーも手品師の訓練を受けている。 彼に手品を教えた人は、大失敗であったと後悔しているという。超能力を科学者が研究す るには、手品師、奇術師の協力が必須であると思う。科学者は手品の専門家ではない。そ ういうことにかけては素人にすぎないので騙されやすい。これまでも幾多の科学者がだま されてきた。進化論をダーウィンと争った、かのウォレスも晩年はそのような研究にいれ こんだという。能力の浪費である。餅は餅屋、超能力には手品師である。
テレビでよく、外国の超能力者なる人を呼んで、行方不明になった人や埋蔵金、宝などを 探させる番組がある。私がこれまで見たところ、まともに探せたものはひとつもない。あ いまいなものばかりである。地震や火山の噴火、事件の予言なるものも、きっちり検証す ると、当たらないか、あいまいなものばかりであった2。こういったものを見 るときは、いつも眉の上につばを付けて見るべきであろう。
3.宜保現象と大槻教授
Japan Skepticsで取り上げられた問題のひとつとしてテレビの宜保愛子番組があった。当 時の副会長であった大槻義彦早稲田大学教授が雑誌などを通して、テレビの番組を激しく 批判したことを覚えておられるかたもいられるであろう4,5。大槻教授を含む Japan Skepticsの有志は、宜保氏がアンネフランクを霊視するというテレビ番組に抗議し たが、テレビ局からは納得ある回答は寄せられていない。大槻教授は「宜保愛子研究会」 を作って宜保問題を研究しようとした。しかし一部の宜保擁護者が、研究会をいわば占拠 した。そして、大学総長や教授に大槻教授の悪口を言ういやがらせを行ったので、大槻教 授は嫌気がさしてJapan Skeptics自体をもやめてしまわれたと聞く。
大槻教授の受難を見ても、疑似科学を批判することはなかなか大変なことだということが 分かる。だから多くの科学者はこれをやりたがらない。私は英国の学者につぎのような話 を聞いた。BBCのアナウンサーが科学者に疑似科学についてのコメントを求めたが、彼 は逃げた。というのも、科学者が疑似科学との論争に勝って当たり前である。しかしその ことが科学者の研究業績になるわけではない。しかし、負ければ確実に経歴に傷が付く。 いずれにしても、疑似科学と関わることは、科学者の経歴にとって有利なことではない。 科学者が「業績」をあげるには、地道な科学論文を量産するのが近道であって、疑似科学 に近づくことは有利なことではない。教科書や啓蒙書を書いても、賞賛されこそ すれ、非難される事は少ない。しかし疑似科学批判をすると、当の疑似科学者からは当 然として、それ以外からも手を変え品を変えた攻撃にあうことは、筆者は身をもって知っ ている。
そのような中で、日本では大槻教授の活躍が目に付く。大槻教授は宜保問題だけでな く、疑似科学批判をさかんにおこなってこられた。特に火の玉研究の日本での第一人者で ある。火の玉は人魂などとして現れる。昔は人魂は燐が燃えるのだと聞かされたことを覚 えている。これが実は大気中のプラズマ現象であることを、大槻教授は強調された。プラ ズマであるとすると、火の玉がガラスを通り抜けたりする不思議な性質が説明できるという。
火の玉研究というと、日本では大槻教授を思い出すが、しかし大槻教授の専売特許という わけでもない。私が火の玉の科学的研究を始めて知ったのは1976年のシシリー島での 相対論的天体物理学の冬の学校であった。その学校はイタリアのシシリー島の西の端にあ るトラパニ市の近郊の山の上にあるエリチェという、古い町で行われた。エリチェとは ビーナスの息子の名前であるという。紀元前のギリシャ時代からあるとても美しい町であ る。町は中世の時代のままで、石畳を敷き詰めた町中は、教会、修道院、城などが混じり 合った町で、とても現代社会とも思えない。その町の修道院をシシリー島政府が買い取っ て、世界の学者のための学校として提供している。われわれはその修道院に泊まり込んで、 勉強するのだ。町の美しさ、イタリア料理のおいしさ、古風な修道院での生活、地元の合 唱団のとてもすばらしいテノール、セリヌンテ、アグリジェントなど古代の植民市のギリ シャ遺跡への遠足など、私の人生の中でももっとも甘美な思い出として残っている。イタ リア旅行をする人は多いが、シシリー島、とくにエリチェなどには行ったことがない人が 多いであろうが、おすすめの場所である。
ただ時は冬で、石造りの天井の高い修道院の部屋はイタリアといえど、とても寒かった。 わずかだけ電気ストーブがあると聞いた私は、院長に貸してくれるように頼んだのだが、 彼はイタリア人らしくフェミニストで、もてる電気ストーブ全部を女子学生に貸し出した とのことであった。私の部屋の隣に泊まっていたのがフィンケルシュタインというアメリ カの著名な相対論学者であつた。彼はソクラテスのような風貌で、なんとこの寒いのに冷 水シャワーを浴びていたのには驚かされた。その彼が火の玉研究の第一人者であると聞か され、その論文も見せてもらった。セリヌンテの古代ギリシャ劇場の遺跡で、そのフィン ケルシュタインが冬の学校の参加者に講義を行った。数千年もタイムスリップしたような 不思議な講義であった。
4.ミステリー・サークルの作り方
Japan Skepticsの会報で、つぎに興味があった報告はミステリー・サークルに関するもの である6。ミステリー・サークル(英語ではthe circles effects)はご存じの 人が多いと思うが、英国で主として報告される現象で、麦畑などで麦がきれいに円形にな ぎ倒されている現象をいう。中世にもそのような現象の報告があったともいうが、しかし ほとんど圧倒的に近年の英国で報告されている。その形も初期は単純な円形であったもの が、年とともに複雑な形状の物が現れてきた。さらに日本などでも後に現れたという報告 があった。これらから判断すると、どうも自然現象というよりは、人間社会における流行 現象のような印象をあたえる。
このミステリー・サークルを巡ってさまざまな論争が繰り広げられた。一部の科学者はそ れを自然現象と断じている。先の大槻教授もプラズマ説を唱えている。しかし私にはとて も首肯しがたい。そもそも自然現象であんなにきれいな円形が現れることはまずない。ど うしても人によるいたずらとしか私には見えない。Japan Skepticsの会員で、雑誌「ニュー トン」の副編集長である寺門さんはその立場に立っている6。
会誌のミステリ・サークルに関する英国の学者の報告は傑作であった$^7$。彼はいたずら 説の立場である。彼は実際、密かにミステリー・サークルを作ってみた。それを鑑定した ミステリー・サークルの「専門家」は、それを本物と断定した。いたずら説に対する反証 として、人間が足跡も残さずにあんなものを作れるはずがないというものがある。竹馬を 使ったとしても跡が残るはずだという。しかしくだんの科学者は、自分の足跡は箒で消し ていったと述べている。それでも「専門家」には分からなかったのだ。またある時は、ミ ステリー・サークル研究者の巡察隊がそばを通ったので、見つかったと思った。しかるに 見つかっていなくて、そのときもいたずらは成功した。後になって、二百いくつものミス テリー・サークルをいたずらで作ったという老人が現れるに至って、この論争はほぼ決着 がついたと私は思っている。ネス湖の怪獣の写真とされたものも、今になっていたずらで あることが明らかになった。この種のものは、いたずらではないかとまず考えるのが、健 全な常識ではないかと私は思う。
5.UFO
UFOも悩ましいテーマである。これは日本のみならず、世界中で多数の信者を獲得している 宗教の一種である。多くの出版物やテレビ番組が流されている。日本のテレビにおけるUFO 教の宣教師としては矢追純一氏が有名である。しかし、その番組は世界的に見ると低いレ ベルのものであるといわれている。外国では間違いであるとかインチキであることが明ら かになったものでも、日本の視聴者の無知をいいことに、垂れ流されているようだ8。
UFOを批判的に分析した高倉氏の本にはその例が事細かに説明されている9。た とえば、スペースシャトル発射のビデオを映す。そのときシャトルのそばに変な物が写って いる。テレビでは、それはUFOではないかというナレーションが流される。ところが高倉氏 がこのビデオの前後を詳しく分析すると、それは発射塔の一部であることが歴然としてい るという。発射の噴煙に発射塔の大部分が覆われて、一部が煙から出ているにすぎない。 テレビ制作者は当然、ビデオの前後を見ているに違いない。しかし、そのことは隠して、 変な部分だけを取り出して映し出したとしか思えないという。
またある番組では、ナチスはUFOを作って火星移住を計画したという。とてもありそうにも ない話である。これなども、UFOをUボートと置き換えると、実につじつまが合うという。 こうなると、UFO教はなんでもかんでもUFOにこじつけないではいられないようである。
私はある会合でおもしろい話を聞いた。東京にすむ外国人の話。テレビのアルバイトの話 があり、それに応募した。するとテレビ局は彼らを富士の麓につれていき、軍服を着せて、 変な物を担架で運ばせた。それがなにであるかは教えられなかった。あとでテレビのUFO番 組を見たとき、宇宙人の死体を運ぶ米軍兵士という役割であったということが分かって、 大笑いしたという。この種のテレビ番組を見るときは、常に一定の批判的な眼を持ってみ るべき事を教えてくれる逸話である。
高倉氏はUFOが宇宙人の乗り物、エイリアン・クラフトであるとする説は、一種の神話であ るというスタンスから、さまざまなUFO例を批判的に検討する。NASAの宇宙飛行士がUFOに であったとか、アポロ13は核爆弾を搭載していたため、UFOに破壊されたというコンノケ ンイチ氏のとんでもない説を丁寧に論破している。コンノ氏が核爆弾と誤解したものは、 実はプルトニウムを熱源とした原子力電池なのだ。それは過去には心臓のペースメーカー としてテストされたことすらあるのだ。その原理はこうだ。放射性物質が崩壊すると熱が 出る。その熱を利用して熱伝対で発電するのである。原子爆弾はおろか原子炉ですらない。 ちなみにアメリカのボイジャーなどの宇宙探査機は原子力電池を積んでいる。太陽系の外 側では太陽光が弱く、太陽電池では不足だからだ。日本の衛星には、国民感情からして原 子力電池を搭載することは難しい。そのことが宇宙開発の一つのネックになっていると聞く。
この論争はその後も尾を引いている。とんでもない本を研究する「と学会」というものが ある。「と学会」の出版した「トンデモ本の世界」10がよく売れている。その 「と学会」の山本弘会長が、雑誌「宝島30」の読者欄で、コンノ氏とこの件で場外乱闘を 繰り広げている。山本氏はもちろん、プルトニウム電池説である。コンノ氏は一時、山本 氏を告訴すると出版社の編集者に息巻いていたそうだ。ところがそれはなかった。編集者 が専門家にプルトニウム電池というものがあるか、それがペースメーカーに使われたこと があるかを聞いたらしい。そういうものはあったが、現在は使われていないと分かって、 コンノ氏は、急にそれは実用化されなかったと論点をすりかえてきた。
こんな内部事情が分かるのは、パソコン通信ニフティー・サーブのSFフォーラム、FSF3の 8番会議室「超科学お笑い劇場よ永遠に」のおかげだ。そこで、山本氏やくだんの専門家が 事情をアップしているからだ。コンノ氏は、後に紹介するようにUFOのみでなく、アイン シュタインやビッグ・バン宇宙論は間違っているという、疑似科学の流行作家として、高 倉氏や山本氏などあちこちでケンカを売っている。かくいう私もコンノ氏に論争を挑まれ ているがそれは後でのべることにしよう。
NASAは太陽系に関するさまざまな秘密を隠しているとこれらのUFO論者はいう。たとえば月 にはUFOの基地があるとか、火星に人面岩があるとか、火星の空は本当は青いとか、金星に は人が住めるとか、NASAはそれを知っていながら隠しているというのだ。NASAを良く知る 高倉氏は、NASAは秘密をかくせるような組織ではないことを指摘する。
高倉氏はまたコンノ氏がアポロ宇宙船の撮った写真に写っているUFOであるとするものは、 アポロ宇宙船のEVAライトであることを、疑問の余地がないほど、克明に証明する。しかも コンノ氏の写真は裏焼きであることまでも証明する。まあ、ここまでやっても、コンノ氏は 懲りないであろうことは、容易に想像できる。しかし「UFOの真贋論争が一般読者に見える ところで行われることは、きわめて意義のあることだ」と高倉氏は考えるし、私も同感である。
UFOにせよ疑似科学にせよ、これは一種の宗教であると思う。宗教を信じる人に、神は存在 しないといっても、受け入れられないことは当然である。神の存在は証明できることでは なく、信じるか信じないかの問題である。だから、これらのUFO論者や疑似科学者を改宗さ せることは不可能である。そのことを私は、彼らの何人かと手紙のやりとりをして分かっ た。そこで、私にできることは、疑似科学というインチキ宗教の被害に会いそうな人の被 害を未然に防ぐということであると思っている。私は宗教が悪いといっているのではない。 宗教と科学は別物だといっているのである。
6. 「科学的」疑似科学の系譜
疑似科学のなかでも、超能力やUFOより、もっと科学に近い分野が存在する。既成の権威あ る理論が間違いだという、より科学の装いをこらした疑似科学である。たとえば私が大学 院生のころ聞いた話では、和歌山県の田辺にすむ薬局の主人が、上中理論なるものをつく り、湯川、朝永はノーベル賞を返却せよと迫ったと聞く。私の教わった教授がいうには、 上中理論の方程式は、右辺と左辺の次元が違っているそうな。こんなことは、科学者なら ばやってはならない初歩的なミスである。しかし上中氏の発行する新聞を読むと、「上中 先生が間違っているはずはない」という、田辺の主婦の談話がのっていたりした。
疑似科学界の名士といえば、清家新一氏であろう。氏の「超相対性理論」11と いう本は、氏によればノーベル賞委員会が買っていったそうだ。氏は東大の物理学科の修 士課程を卒業し、大学の教官をしていたこともあるというれっきとした経歴の持ち主であ る。現在は、著書によれば宇和島で重力研究所なるものを主催していられるようだ。氏の 前述の著書は、のっけから超難しそうな式のオンパレードで圧倒される。もっとも、その 式のおかしさは、相対論の専門家には分かるが、素人はただ圧倒されるだけであろう。し かし、中程になると、反重力機関なるものや、その写真が出てくるので、素人でもおかし いということに気がつく。UFOの推進機関の説明だという。
こういった「研究」は特異ではあるが、非常にめずらしいということでもない。たとえば K旧帝国大学の宇宙物理学の助教授が、このような訳の分からない研究にのめり込んでい るし、学生の卒業研究のテーマにしているとも聞いている。清家氏を呼んで研究会を大学 で開いたと聞く。さらには、その大学がその助教授に研究奨励金を与えている。奨励金に たいする審査が全く形骸化している証拠である。研究の自由ではあるが、税金の無駄使い であることは明らかだ。
私は東大の研究生をしていた某大学助教授のことも思い出す。この人はたしかニュートン 力学が間違いだというようなことを言っていたと思う。東大で受け入れられないので、京 大での研究会で研究者を相手に自説をぶった。それを聞いていたのが、阪大の故内山龍雄 先生であった。内山先生は素粒子論の大家だが、相対論の大家でもある。岩波から教科書 が出ている。この先生は怖いことで有名で、相手が偉かろうがそうでなかろうが、間違っ ていると大声で怒鳴りつけるのである。先生の前ではみんなはおどおどしていた。ところ がくだんの助教授はそれを知らず、とうとうと疑似科学理論を述べ立てた。先生は質問が あるといって、いろいろ聞かれた。それに対して助教授は、あとで答えますといって、ま た自分の意見だけを述べつつけた。先生はまた質問があるといわれたが、同じ事の繰り返 しであった。そこで最後に先生は、「質問に答えないなら、おれは帰る」といって、ほん とに席を蹴って帰ってしまわれた。怖かった。そのあとで、人々は助教授の考えがどう間 違っているかを詳細に説明したのだが、助教授は全く聞く耳を持っていないようであった。 ここに疑似科学者のひとつの典型を見る。かれらは、一種の宗教的な信念にとらわれてい て、自分は正しいと思いこみ、他の意見に耳を傾けないのである。だから彼らとの議論は、 ほとんど成立しないのである。
学会ではどうか。たとえば物理学会では、このような訳のわからない研究発表が結構たく さんあるのである。素粒子分科会の、ある早朝のセッションでは、そのような発表がまと められている。筆者がまだ大学院生だったころ、初めて物理学会に行って、そのようなセッ ションを見て驚いた。とある、旧帝国大学元教授が難しい素粒子理論の発表を始めた。す ると、聴衆が一斉に退去し始めたのである。私は、なんと失礼な人々なのだろうと思った のだが、後で理由を聞いて納得した。この人は、もとは湯川、朝永先生たちと研究をした 立派な研究者であったのだが、あるときから、他人の授業の妨害を始めるなど奇行がめだ ち、大学を首になったのだという。発表の内容は難しく、私には分からなかった。しかし、 今から見ればその理論が知られているという事もないので、多分おかしなものであったの だろう。この場合は例外的である。このセッションの他の人々は、どう考えても疑似科学 としか思えない発表を熱心に行っている。でも早朝ということもあり、聴衆は少ないよう で、座長と発表者だけということもあった。もっとも最近は、覗いていないのでよく分か らないが。後で述べる疑似科学者の中には、正統派科学以外の発表が抑圧されているなど という人がいるが、そうでないことは上述の例から明らかであろう。
アマチュアではどうか。これはもうあきれるほど多い。私はこれまで何年にもわたって、 多くの人々からの手紙や論文、本などを送られてきた。彼らはあきれるほど熱心に自説を 展開している。手紙だけではなく、なかには会いたいという人までいて、困っている。内 容はさまざまで、箸にも棒にもかからないものから、かなりの水準を行くものまである。 南海の孤島に住む90何歳の老人の、膨大な「研究成果」もいただいている。研究室に飾っ てあるが、だれも理解できていない。私は後で述べるように、相対論は間違っているとい う疑似科学に反論する文を発表したりしているので、最近はその方面の人々、つまり相対 論は間違っているという何人もの人々からの手紙や本をいただいている。なかには、自説 を理解しないとして、私と二間瀬東北大学教授、佐藤勝彦東大教授を「日本3大アホバカ」 と論難する人までいる始末である。アホバカでも、日本3大に選んで頂いてうれしい。
7. 相対論は間違っているという疑似科学
この手の疑似科学の多くは、その当時に権威ある理論に反抗するのが特徴であ る2。ニュートン力学全盛の時代には、それが間違いであるとする疑似科学が はやった。最近では、アインシュタイノの相対論は間違っているとか、ビッグバン宇宙論 は間違っていると主張するものが流行している。最近、日本で眼につくものとしては、コ ンノケンイチ氏が、ビッグバン宇宙論は間違いだとか、ホーキング宇宙論は間違いだとか 主張した本がある12,13。窪田登司というオーディオ評論家が「アインシユタ インの相対性理論は間違っていた」という本を書いている14。そのあとで、窪 田氏や大学教授を含む多数の著者になる「相対論はやはり間違っていた」という本が出版 され、そのなかでも窪田氏は同趣旨の議論を展開している15。コンノ氏の本は ベストセラーの一角を占めたこともあるし、他の本も書店では平積みになっている。それ に勢いを得た出版社は、疑似科学者を総動員して、疑似科学シリーズを出版してい る16,17。この手の出版社は、売れれば悪魔の本でも出版するであろう。
もっともよく読むと、これらのシリーズの著者の中で1名だけ、まともな研究者が紛れ込ん でいるのである。一カ所だけ間違いがあるが、その他はなかなか見識があり、たいしたも のだと私は思っている。どういうつもりで、疑似科学者の群に入っているのかは分からな いが、いうならばクソの中にミソが混じっているのである。しかし一般の読者はその違い をかならずしも看破できないだろう。これらの著者の中には大学教授、助教授、助手など が入っているが、その人たちが上述のまともな研究者ではない。となると肩書きで判定す るわけには行かない。出版社が大学教授などをその著者に入れるのは、権威付けのためで あろう。
これらの本が間違っていることは専門家ないしは物理学を知っている者が読めば、それこ そ「最初の5ページで分かる」程度のものである18。しかし一般には判定は難 しいようだ。寿岳先生の講義の後で、真面目な学生の一人が、コンノ氏の本の一つを持っ てきて、「この本に関して質問があるのですが」と真剣に質問したので、絶句してしまっ たという話を私に語ってくれた。私の属する大学院の入試の口頭試問で、ある受験者に、 あなたは大学院でなにをやりたいのですかと聞くと、相対論と答えた。どんな本を読みま したかと聞くと、くだんの疑似科学書をあげるではないか。そして、それが本当かどうか よくわからなかった、などと答えるではないか。情けなくて涙がこぼれる。もっとも、大 学教授、助教授ですらそんなことをいう人がいるくらいだから仕方ないか。
一昨年の天文・天体物理若手夏の学校では、これらの疑似科学書を糾弾する分科会が持たれ た。ここでもコンノ氏にまつわるおもしろい逸話がある。日本天文学会の発行する「天文 月報」に、東大の佐藤さんという女子大学院生が、宇宙における超光速天体の解説記事を書いた。こ れは天文学でよく知られたことで、クエーサーなどからでる、光速に近い宇宙ジェットが、 一見、超光速のように見える現象である。その理由は相対論を使ってきちんと説明されて いる。本当は超光速なんかではない。ところが、相対論否定のネタがほしいコンノ氏はそ れに飛びついて、くだんの院生に会いたいと連絡を取ってきた。院生は、その方面の権威 である平林教授と同席なら会ってもよいと伝えたら、それ以後、コンノ氏からの連絡は途 絶えたという。この話は昨年の天文・天体物理若手夏の学校で報告されたし、インターネッ トのニューズ・グループにも載っていた。
疑似科学書に関しては、すでに池内了阪大教授が厳しく批判している18,19し、 「と学会」会長の山本氏の批判的紹介もある10,20,21。「と学会」のスタンス は疑似科学に対してまともに反論するのではなく、笑い飛ばすというものである。ところ で疑似科学に対して疑似科学とレッテルを張るだけで、具体的な反証を上げないのは失礼 であるという反論もある。もっともである。多くの専門家は一目見ただけで無視するだけ であろうが、私は詳しく検討してみた。コンノケンイチ氏の議論は、ほとんどおとぎばな しのレベルであり、まともな議論の対象にならない22。まず彼の議論には数式 が全然出てこない。それどころか、二乗して負になる虚数は存在しない、あるいは単なる 数学的な存在で物理的実在とは関係ないという暴論を展開する。虚数、それを拡張した複 素数は、現代物理の根幹である。量子力学の基礎である波動関数は複素数そのものである。 さらには彼は負数すらないといいはる。「あるならマイナス100万円を目の前に出して見 ろ」ともいう16。それにたいしては、私の預金通帳を見せたいものだ。マイナ スだらけである。ここで数、数学というイデアの世界と、現実の物理世界がいかにみごと に関連しているかを議論する余裕はない。興味ある人は英国の数学者、物理学者で宇宙論、 相対論、準結晶の大家であるペンローズの大著をあげたい23。そこでは複素数 がいかに「実在」するかを、目に見える見事な例で解説している。
コンノ氏の議論は、科学の土俵では反証できない。いうなれば宗教である。もっとも氏の 最近の文を読むと、解説書、啓蒙書、通俗本のたぐいをよく読んで勉強している様子は見 て取れる。しかし、どうも自分に都合のよいように曲解しているところが多すぎる。たと えば氏は文献16の中の文で、リンドリーの本24を激賞していた。そしてリンド リーを氏の説の補強として引用している。私はリンドリーとは疑似科学者かと思って読ん でみると、なんと意に反して、きちんとした教育をうけた科学雑誌の編集者で、その本は 現代物理学の最先端を解説した立派な本ではないか。ニュアンスの多少の違いは措くとし て、多くの物理学者はリンドリーの著書は正統科学のよい解説書であると考えると思う。 コンノ氏が激賞しているように、なかなか立派な本であると私も思う。しかしどう読んで みても、リンドリーがコンノ氏の説をサポートしているとは思えないのである。コンノ氏 は文の一部だけをつまみ食いして、自分をサポートしているように見せかけているだけだ と私は思う。
コンノ氏の本でおもしろいのは、フランスの物理学者アスペ(Aspect)をアスペクトと書い てある点である。人の名前の読み方は、中国人や韓国人の場合、現地読みと日本読みでは 違うと言うこともあるが、フランス人の場合はあえて英語読みすることもないのではない か。この問題でもコンノ氏は山本氏にからかわれて、かっかきているようだ。パソコン通 信で、ある疑似科学者がやはりアスペクトと言っていることを見ると、コンノ氏の影響力 もかなりのものだ。
ところで私はコンノ氏から4つの公開質問なるものを受けている。そのなかで、アスペの実 験は、相対論を否定することの証拠ではないかというものがある。リンドリーもそう述べて いるという。私はそれにたいしてはリンドリーの言葉24「そのためEPR実験 は、光の速さより速く情報を伝達するために使えるわけではなく、その意味で相対論の法 則が定めるところに反するわけではない。」を指摘したい。 またアスペの言葉25も付け加えておこう。 アスペは「つまりあなたは、光より速い信号のようなものが、分離した領域を伝わ ることが可能であると信じるんですか?」という、本の著者ディヴィスの質問にたいして、 「いや、そんな信号がありうるとはおもっていません。」と明快に答えている(63ページ)。
窪田氏はコンノ氏よりはましである。数式を用いているので、少なくとも科学の土俵で議 論できる。また彼の提案する、相対論が間違っていることを示すとする実験も簡単にやれ るものである。つまり反証できるのである。窪田氏の議論を、よく検討すると、相対論に 対する誤解と初歩的な誤りを冒していることがすぐ分かる26。「・・やはり ・・」の本は多数の著者により書かれているが、検証に値するのは、岐阜大学工学部の 後藤教授の議論であろう。さすがに教授だけあり、窪田氏よりは多少はましな議論をして いる。窪田氏の誇る「窪田の関係式」を簡単に否定さえしている。教授の冒している誤り は多少は高級なものである。しかし、相対性理論の教科書をきちんと読めば、分かる程度 の誤りである26。多少難しい話になるが、マクスウエルの波動方程式がガリレ イ不変であるとする教授の明らかな間違いなど、私の大学院生がそんな簡単な計算間違い などしたら、怒鳴りつけるであろう。
窪田氏、後藤教授の議論は、なかなかおもしろいという見かたもできる。初学者が誤解し やすいところ、陥りやすい過ちにきっちりとはまっているからである。その意味で、これ らの本はなかなか教訓的である。これらに対して反論するため、また私によせられた多く の手紙に答えるために、私は相対論に対する典型的な誤解と間違いを集めて、雑誌「パリ ティ」で「相対論の正しい間違え方」と題した解説を連載することにした27。
この連載の共著者の木下氏は、ハンドルネームをアクシオンといって、パソコン通信のニ フティー・サーブの科学フォーラムで古くから活躍している人である。私はニフティーの 古い会員であるのだが、以前チャットにはまって、電話代とアクセス料があまり高くなっ たので、何年ものあいだ近寄らないことにしていた。しかし昨年、この疑似科学問題に関 心をもってアクセスしてみると、アクシオン氏が長年にわたって、科学フォーラム、物理 学会議室で疑似科学批判の論陣を張っていることを知った。たとえば文献14に対しては 「相対論は間違っていたは間違っていた」28、文献15に対しては「相対論はや はり間違っていたはやはり間違っていた」29、文献16に対しては「科学をダメ にした7つの欺瞞は科学をダメにした」30として、詳細な批判的検討を加えて いる。またSFのフォーラムである前出のFSF3「超科学お笑い劇場よ永遠に」会議室でも、 「いろもの物理学者」さんが、文献16の批判的検討を加えている31。
これらの会議室はなかなかおもしろい。というのも、会員の中には疑似科学者もいて、へ んてこな自前理論を展開してくる人も何人かいるのである。それらにたいして、アクシオ ン氏を始め多くの人が、じつに根気よく、その疑似理論の間違いを指摘し、分析し、説得 しようと試みているのである。会員には大学関係者や専門家もいるようであるが、どちら かというと学生、アマチュアと思われる人のほうが、博識である場合が多いように思える。 私もときどき疑似科学のお相手をするのだが、時にはばからしくなってしまう。なんでこ う物わかりが悪いのだろうと。なかには「バカ野郎ともいわずに、丁寧につきあっている 人には感心してしまう」とおっしゃる専門家(らしい人)もいるが、全く同感である。私 は世の疑似科学者に訴えたいのだが、自分の理論を本などで発表する前に、こういったと ころでもまれてみるのもよいのではないかと思う。もっとも先にも述べたように、疑似科 学者たちは、いかに論理的にきちっと、大勢の人に間違いを指摘されても、絶対に過ちを 認めないというのが特徴である。まさに宗教なのである。そのことはこのフォーラムの議 論でよくわかるであろう。
疑似科学が論じられる別のチャンネルとしてインターネットがある。ニューズ・グループ というものがある。パソコン通信のフォーラムに相当していて、特定の問題が論じられる。 ここでも疑似科学に対する熱い戦いが繰り広げられている。そのなかでもfj.sci.physics, fj.sci.miscなどを見れば疑似科学に対する議論が見られる。
以前、そこで話題になっていたのに、哲学者を自称する某公立大学助教授の 著作17があった。本書は多くの天才たちの理論を切っているのだが、 ほとんどが完全な的外れである。私もやり玉にあがっている。問題はそのような本が大学 助教授の肩書きで書かかれていることであろう。書店にいくと、このような疑似科学書も まともな本も、同レベルで陳列してある。むしろこのような本がよく売れると見えて、平 積みになっている。生協などの書店の見識を問う議論、同大学の人事制度に疑問を呈する 議論、その助教授と大学を擁護する同大学物理学教授の発言、間違った科学を推進する学 問の自由に関する議論などで盛り上がった。
本論から離れるが、もうひとつニフティー・サーブ、インターネットの両方で盛り上がっ ている話題に、ドクター中松の問題がある。ドクター中松は発明王を自称しているが、そ の根拠がきわめてあやふやであることが、詳細に調べられている10,32,33。こ の問題の権威とでもいえる人に千葉大学の大豆生田(おおまめうだ)氏がいる。氏は特許 庁におけるデータの調査などから、ドクター中松の欺瞞性を徹底的に論証している。興味 ある人はWWWで千葉大学の大豆生田氏のホームページ34を参照されたい。
8. 特殊相対論は完全に正しい
本論では相対論の内部にわたった議論を展開することは適切でないと思うので、詳しくは 述べない。関心のある人は私の別の文献を参照されたい26,27。ここでは私の 結論のみを述べておく22。
1に関しては多少説明がいる。20世紀の2大物理理論である相対論と量子論のうち、量子論 は半導体やレーザーなどを通じて日常生活に組み込まれている。その理論の基礎にはまだ 疑問もあるが(観測問題)、実用からいっても、これが間違いというようなことはない。 それに対して相対論は量子論ほどには日常生活に密接ではないように見える。しかし現代 の素粒子論は特殊相対論を深く組み込んでいる。相対論的量子力学、相対論的場の量子論 に基づく予言は実験結果に合っており、特殊相対論なしでは現代の素粒子論はありえない。
素粒子実験のために素粒子を光の速さ近くまで加速する加速器というものがある。電子は 軽いから、線型加速器で容易に光速近くまで、加速される。しかし、けっして光速を越え ないことは簡単に観察できる。これは正に特殊相対論が予言することである。シンクロト ロンという加速器がある。円形のリングの中を電子や陽子のような荷電粒子をとじこめて 電磁気的に加速する。円軌道を保つために電磁石を用いる。加速するために電気的なパル スを加える。素粒子は極めて高エネルギーに加速され光速度に近い速度で運動するので、 特殊相対論的効果が非常に重要になる。そのためシンクロトロンの設計、運転には特殊相 対論の知識が必須である。特殊相対論が間違っているということになれば、どうして加速 器が思ったように動くのか。特殊相対論は誤りだなどという説を、素粒子実験に従事する 高エネルギー物理学者にしても、全くとりあってもらえないだろう。実際、私はその話を したのだが、大笑いされただけであった。一般相対論の観測的証拠は有名な三つのテスト を含めて10程度であるが35、特殊相対論に関しては、その正しさを証明する実 験事実にことかかないのである。
ところで特殊相対論では、加速運動はとりあつかえないという誤解がある15,16。 だから前述の加速器の話は例にならないという。実はこれもコンノ氏が私に課した公開質 問の一つである。とんでもない話である。もっとも前述のリンドリーの解説書24 には、確かにそのような記述はある(111ページ)。これは明らかにリンドリーのミスであ る。もっともこの誤解は、学者や学生の中にも驚くほど流布しているので、リンドリーばか りを責めるわけにもいかない。私がこの質問をして、それに即座に明快に答えた学生は少 ない。しかし、これは難しい話ではない。一種の思い込みにすぎない。
もし特殊相対論的力学が加速運動をとりあつかえないで、等速直線運動しか取り扱えないと したら、そんな力学になんの意味があるのか。役に立つ計算はなにもできないではないか。 ニュートンの力学が役に立つのは、力をうけた物体が加速運動することを式に表している からであり、それを計算すれば物体の運動が予測できる。そのニュートンの運動方程式を 拡張した、相対論的力学が加速運動を計算できないなどということがあるはずがない。 逆に言えば、特殊相対論において、速度を光速度に比べて小さいとおくと、ニュートン力学 に帰着する。つまり特殊相対論はニュートン力学を極限の場合として含んでいるのである。 その極限の理論で加速運動が取り扱えるのに、もともとの特殊相対論で加速運動が扱えない などというはずがないではないか。 そもそもアインシュタインは特殊相対論を提案した論文で加速運動を扱っているのである。 この種の誤解は、特殊相対論における座標変換であるローレンツ変換が、お互いに等速直 線運動する座標系どうしの変換のみを扱っていることから来る誤解であろう。さらにいう なら、特殊相対論の範囲内で加速度系への変換を扱うことすらできるのである。
9. 光速度一定はあたりまえ・・・GPSとカーナビ
さきに量子力学の成果は日常生活に浸透しているが、相対論はそうでないと述べた。しか し実は、これは必ずしも当たっていない。特殊相対論、というよりは、その基礎である光 速度一定の原理は、カーナビの技術を通して、日常生活と関係している。カーナビはアメ リカ国防省の打ち上げたGPS衛星を利用して、車の位置を測定する装置である。GPS衛星は 1970年代の終わり頃から打ち上げられ始め、最近ようやく6種類の軌道に4個づつ、計24個 の衛星打ち上げが完成した。この衛星は地球中心から2.5万キロメートルほどのところ を、周回している。衛星には正確な原子時計が積まれ、地上に衛星の位置と正確な時刻を 放送している。地上のカーナビにある受信機は、これら衛星からの情報をキャッチして自 分の位置を決める。
どのようにして位置を決めるか説明しよう。衛星からでた電波をキャッチすると、その衛 星を電波がでた時刻と、衛星の位置がわかる。受信機にある時計で電波受信の時刻を知る。 電波受信の時刻と電波発射の時刻の差から、電波が飛んでいる時間がわかる。これに光速 度を掛けると受信機から衛星までの距離がわかる。このようにして3つの衛星からの距離が わかると、受信機の地球上での位置と高さがわかる。ところが、衛星に積んでいる時計は 正確な原子時計であるが、カーナビに積んでいる時計は、それほど正確でない水晶時計で ある。そこで第4の衛星を利用する。水晶時計の誤差を未知数として、4つの衛星からの情 報をもとにした4本の方程式をとくと、受信機の位置についての3つの未知数と時計の誤 差が求まる。こうして受信機はその位置だけでなく、原子時計なみに正確な時刻もわかる のである。
もっともことはそれほど簡単ではない。カーナビには誤差が付き物である。誤差の最大の 原因は、米軍が衛星の位置情報にわざと混ぜる誤差である。GPSからでる電波には二種類有 り、そこに乗っている情報も二種類ある。カーナビのような民生用の情報には、わざと誤 差を混入してある。敵が利用しないようにするためであろう。一方、軍用の情報もあって、 そちらをつかうとより正確な位置が決まる。GPSの精度は、粗い場合で100メートル程度で ある。実際のカーナビでは、100メートルもの誤差があると、都市では走っている道路がわ からなくなったりするので、それ以外の地図の情報なども併用していると聞く。軍用では 精度は10メートル以下である。さらに2つのGPS受信機を併用するような方法では、誤差が センチメートルからミリメートルにまで減らすことができる。この手法を用いると、正確な 地図がそれまでのような測量技術を用いずに作ることができる。これが地震の予知などに も用いられる。
GPSの原理は以上に述べたように、光速度が本質的な役割を果たす。相対論は間違って いるという疑似科学者の多くは、19世紀的なエーテル説を信奉している。つまり、この宇 宙には絶対空間、絶対静止というものがあり、光速度はそこで測って秒速30万キロメー トルであるという。地球はその絶対空間に対して運動しているとすると、光速度は方向に よって異なることになる。19世紀の末にアメリカの科学者マイケルソンとモーレーが測ろ うとしたものは、まさにその速度なのであった。そしてその速度は測れない、つまり光速 度は方向によって異ならないという結論を得た。それこそが特殊相対論の根本的仮定つま り「光速度一定の原理」になったのである。しかし疑似科学者はこれを信じない。マイケ ルソンたちの実験は間違いだとか、別の解釈があるとかいう14,15,16。しかし マイケルソンの実験が間違いだなどということはありえない。なぜならその実験は、それ 以後もたくさんの人により、進んだ技術を利用して繰り返され、精度はますますあがって いるのだから。
さて仮に絶対空間があるとして、それにたいする地球の速度はどれくらいであろうか。地 球は太陽のまわりを秒速30キロメートルで走っている。だから少なくとも地球の速度は、 秒速30キロメートルはある。マイケルソンたちは、この速度を検出しようと試みたのだ。 この速度は光速の1万分の1である。しかしマイケルソンの実験では、光を往復させるとい う実験技術のため、その値の二乗、つまり1億分の1の精度の実験が必要であった。しかし 19世紀末から20世紀始めの技術水準でも十分これをこえることはできたのだ。
ところで太陽は宇宙空間で静止しているわけではない。太陽は銀河系の中心の周りを秒速 220キロメートルほどの速さで回転している。銀河系もまた宇宙空間を走っている。これら を考えると地球の絶対空間(そんなものがあるとして)に対する速度は、秒速30キロメー トルより大きいはずだ。実は最近になって、COBEというアメリカの人工衛星の観測から、 太陽系は宇宙全体に対して秒速350キロメートルくらいの速さで走っていることがわかった。 光速のなんと千分の1である。
さて地球が絶対空間に対して秒速300キロメートルで走っているとすると、光速度は方向に よって千分の1もことなることになる。さてここでカーナビにもどろう。カーナビからGPS 衛星までの距離は、少なく見積もっても2万キロメートルはある。そこでもし光速に千分の 1の誤差があれば、カーナビの位置には20キロメートルの誤差がでることになる。先にカー ナビの精度は悪い場合で100メートルであると述べた。20キロメートルの誤差があれば、と てもカーナビの技術は成立しない。これを考えるだけで、19世紀的エーテル理論は間違いで あることはすぐにわかるのである。19世紀末に1億分の1の精度の測定ができたのに、現代 の技術で千分の1の違いが分からないと、これら疑似科学者たちは信じているのだろうか。
ここまでは相対論といっても、光速度一定のことだけを述べた。しかし特殊相対論では、 走っている時計は遅れるという効果がある。したがって走っている人工衛星の時計は地上の時 計よりも少し遅れる効果がある。また一般相対論では、地上の時計よりも上空の時計は進 むという効果もある。これらを勘案すると、GPS衛星の時計は進むことになる。この進みの 量は正確に計算されており、衛星から発する時計の信号は、正確にそれだけ遅らせてある。
つまりGPSを設計した米軍は、光速度一定の原理、特殊相対論、一般相対論を知っており、 きちんとその補正をしているのである。またソニーや松下などカーナビを設計する技術者 もそのことは知っているのである。もし彼らがくだんの疑似科学者の言を信用して、エー テル理論を採用したら、カーナビは簡単には作れないのである。このことから見ても、疑 似科学者のいうことが嘘であることは明白なのである。
10. 現代科学の作法
正統科学とか疑似科学といっても、その境界はあまりはっきりしない場合もある。そこで 正統科学とはなにかを定義しなければならない。ここでは科学一般というよりは、物理科 学に限定しよう。まず形式的なことをいえば、正統科学の踏むべき手続き、スタイル、作 法というものがある。そのなかでも重要なのは科学論文出版に関する慣行である。科学論 文は英語で書いて、権威ある欧文雑誌に投稿する。雑誌の編集者はその論文を1ないし2 名のレフェリーに審査を依頼する。レフェリーが出版に同意すれば問題はない。しかし一 部のレフェリーが同意しない場合、著者はレフェリーが納得するまで論争するか、あるい は場合によっては編集者にレフェリーを変えるように要求することもできる。それでもダ メな場合は、別の雑誌に投稿するという手もある。こうして、まともな論文であれば、通 常は出版される。出版されないのは、普通は間違いが明らかか、出版の価値がない場合で ある。こういったシステムをピアーレビューのシステムとよぶ。
ここで私が主張したいことは、前述の相対論は間違っているといった主張が、これらの正 統な科学的手続きを経ていないということである。つまり権威ある科学雑誌で主張せずに、 日本語の商業出版の本で主張していることである。さきに私が議論を物理科学に限定した のは、文科系の分野では商業出版の本に自説を載せるのが慣行であるし、工学系の論文で は日本語であることも多い。しかし英文で論文を書いて、世界を相手に論争するほうが好 ましいのは当然であろう。相対論は間違っているというような、現代科学の根幹を揺るが すような議論は、専門の学者を相手にして世界レベルで戦わすべきであって、素人の読者 を相手に述べるべきことではない。だから私は前述の本を疑似科学書と断定するのである。
もっとも件の論者たちが、自説を権威ある雑誌に投稿しても受理される見込みはないだろ う。だからこそ、商業出版で自説を述べるのであろう。ところが論文が受理されないのは、 無価値な論文とは限らないというジレンマがある。論文の内容が時代のパラダイムに合致 しないとか、革命的すぎてレフェリーや編集者が理解できない場合も、論文は却下される。 そういった悲劇は、ガロアの群論を始め、あまたの天才が被ってきた悲劇でもある。また レフェリーが論文著者の競争相手であり、足を引っ張るためだけに却下するという犯罪的 な例も、悲しいかなアメリカなどでは散見される。というわけでピアーレビューシステム といえ完全なシステムではない19。ところで池内教授がそのようなことを述べ たので、コンノ氏は自分が評価されたと思って、池内教授をえらく持ち上げた16。 これは池内教授にいわせれば、とんでもない誤解である。権威ある雑誌に受け付けられない 論文は、かならず革命的な論文であるとする議論が成立しないのは当然であろう。
なんといっても歴史の審判というものがあり、革命的でも正しい説はやがて受け入れられ、 間違った説はいずれ捨て去られるであろう。その意味で、特殊相対論は1905年に提案され て以来、歴史的試練を経てきたのである。それが間違いであるとする、権威ある雑誌に載 った論文を筆者は知らない。また相対論に関する山のような教科書、解説書がある。その 著者にはディラック、パウリ、シュレディンガー、ボルン、ボーム、ランダウ、リフシッ ツといった、量子科学で活躍した天才たちも含まれている。これらの人々がことごとく間 違っていたなどとは、とても信じられないではないか。
もっとも、上記のような言い方は権威主義のそしりを免れないかもしれない。つまり、偉 い人がいっているから正しいに違いないというような言い方である。こういった権威主義 に立つ疑似科学批判を、アクシオン氏は「疑似」疑似科学批判といって退ける。一方、疑 似科学陣営の人々は、それとは逆である。つまり、偉い人がいったことだから正しくない、 あるいは反発したくなるという心情である。やはり、ここはきちっと検証して、正しいか 誤っているか、調べるのが正しいやり方であろう。
11. 正統科学が満たすべき条件
しかし発表方法などは副次的なことである。ある理論が正統的な物理科学理論であるために は、満たすべき条件がさまざまある。
条件2に関しては、多くの擬似科学的議論には、後でああだこうだと議論する例が多い。そ れでは正統科学とは認め難い。なにか事件がおきると、それはノストラダムスに書いてあっ たといった類である。
条件3は、アインシュタインが自然は美しいといったという、その精神である。思考の経済 ともいえる。先に述べた線型加速器での電子の速度が光速を越えないことに関して、後藤 教授は次のように述べている15(322ページ)。「電子が光速つまり電磁波の伝 播速さに近づくにつれ、加速を抑制するような作用が電場に対して加わることは、十分考 えられることなのです。これは、あながち荒唐無稽とも言えないでしょう。」と述べて、 実は荒唐無稽な仮説を導入して、実験を説明しようとしているのは、正に条件3に反するの である。特殊相対論ですっきり説明できることを、未確認の仮説を導入してまで説明する 必要はない。この現象だけならともかく、特殊相対論で説明できるとする効果に出会うた びに、後藤教授は別の仮説を導入して、説明しなければならない。これは経済的ではない。
数式は物理科学の共通の言語である。百言ついやしても、一式にかなわないことがある。 また数式の正さ、誤りは客観的に検証できる。従って、物理理論は普通は数式を用いて記 述されるものである。また数式で記述されるからこそ、量的な予言、予測が可能である。 この判定条件で見ると、コンノケンイチ氏の一連の宇宙論12,13は失格である。 氏の議論は言葉、言葉、言葉のられつである。それは物理科学とは全く異質の世界であり、 宗教的、哲学的議論である。信じるか信じないかの世界である。
12.疑似科学批判の意味
これまでに述べてきたように、さまざまな種類の疑似科学があり、オウムを生み出すひと つの素地にもなったことは述べた。それほど極端ではなくても、疑似科学は昔の迷信と同 じようなもので、好ましい訳ではなく、社会に反科学的なムードをそだてる危険性がある。
とはいえ、疑似科学的主張があるからといって、それで現代科学が揺らぐとは思えない。 しかし時の体制とくっついて、正統科学を弾圧したルイセンコ学説の例もあり、完全に楽 観視することもできない。アメリカのキリスト教会の創造説なども、政治的に利用されて 危険である。
日本の現状では、疑似科学を楽しむといった向きには、それほど害はないであろう。 また疑似科学批判も、それを まじめに反論するのではなく、「と学会」のように笑い飛ばすほうが効果はあるのかも知 れない。昔の中国の賢人も「怪力、乱神を語らず」といって、疑似科学に批判的であった。 つまり分かっている「大人」には、疑似科学の害は少ないのである。
UFOなどを信ずる割合は、一般市民が10-20パーセント程度であるのに対して、大学生では 50パーセントもあるという調査は、かなりショッキングである。 次代をになう子供や青少年を疑似科学的主張で惑わ すのは罪なことだし、反社会的な行為だと思う。個々人が疑似科学的主張をしたり信じた りするのは個人的問題であるが、マスメディアが商業主義に毒されてそれを行うとしたら、 まったく罪作りなことである。私の批判はそこにむいている。
疑似科学批判は大きな力にはなっていない。大槻教授ひとりが、がんばっているような感 じがする。しかし大槻教授の疑似科学批判のやり方には危ういところがあるとも指摘され ている10。Japan Skepticsの面々はそれなりの活動はしている3。 それとても、滔々たる商業主義の流れに対するはかない抵抗のようにも見える。 天文・天体物理若手のようなグループの活躍にも期待したい。