インターネットの発達と科学研究発表法の革命的変化

本論では疑似科学の興隆の例をまず述べる。つぎにインターネットの発達が科学研究の発表法に革命的変化を与えつつあることを述べる。これはうまくいけば、科学研究の加速的進歩を生み出すが、同時に職業的科学者の既得権益を侵すものでもある。まずく行くと疑似科学の浸透といったカオス的状況をもたらす可能性すらある。

「話せば分かる」か?

5.15事件で時の犬飼毅首相は乱入してきた青年将校たちに「話せば分かる」といいながら、「問答無用」と殺されてしまった。この青年将校たちの言動は、理性というものを信じない非合理精神の一つの象徴であり、軍部が国を誤らせた原動力である。

 この「話しても分からない」ということ、つまり非合理精神は今も連綿と続いている。たとえば極端な民族感情とか宗教感情はその例である。異民族が平和的に共存するよりは、殺し合ってでも民族的自立を求める方が良いのだろうか。バーミアンの仏像を爆破することによってタリバンは、心情的にはスッとするであろうが、観光資源を失うことは、国の将来のためにならないことは明らかである。このように非合理な考えは、長期的に見れば、当人たちにとっても良いものでない。しかし人類ある限りなくならないような気がする。

相対論は間違っている!か?

 私はJapan Scepticsという会議に属している。この会は超能力、UFO宇宙船説などの超常現象や疑似科学を批判的に研究する会である。私はもっぱら私が科学的疑似科学とよぶものを批判的に検証している。そのひとつが相対論は間違っているとする説である。もちろんいかなる科学理論も未来永劫正しいという保証がないことは歴史を見ても明らかだ。その意味で、特殊相対論に限界があることを否定するものでは全くない。しかし世の反相対論者のとなえる説は、特殊相対論がきわめて初歩的なレベルで間違っているというものである。19世紀末、20世紀初頭にすでに決着が付いたこと、たとえば「エーテルは存在しない」ということに、100年後の今でも異議を唱える立場である。

 こういった議論は相対論成立以来、連綿とあった。それが90年代以後、日本で浮上してきたのは、一部の大手出版社が「売れればなんでも良い」とする方針で、これらの疑似科学書を出版してきたからである。超能力やUFOも、それを信じる若い人が非常に多いのだが、その大きな理由はマスメディア、とくにテレビの、視聴率第一主義にあることは、さまざまな研究から明らかになってきている。

 反相対論者とそのファンには、専門の物理学者はいない。大学教授などもいるのだが、専門は別の所にあり、相対論に対する発言はアマチュアの域を出ていない。その証拠にかれらは自分の意見を商業出版で発表するのだが、けっして専門雑誌に英文の論文としては発表しない。といって英語の論文が書けないわけでないことは、専門分野の論文が英語であることからも明らかである。

 「プロの疑似科学者」や「プロの超能力者」、「プロのUFO専門家」もいる。「プロの」という意味は、それでお金を稼いでいるという意味である。彼らを受け入れる素地がマスメディアにあるからだ。またそのマスメディアを支えるのは、それを受け入れる読者、聴衆が存在するからである。彼らはプロであるから、自分の立場のインチキ性に気がついているのかもしれない。それでも儲かればよいのであろう。あるプロのUFO論者は「金に転んだ」と言ったそうである。

アマチュア疑似科学ファンの宗教的情熱

 プロと、関心ある一般視聴者、読者の中間に、熱烈な疑似科学ファンが存在する。反相対論でいうなら、プロに影響されて、相対論は間違っているという論陣を、パソコン通信の会議室、インターネットのホームページなどで展開したり、筆者の所へ論文や本、メールを送りつけてくる人たちである。物理学者で、著書などで少しは名の知れた人なら、彼らの攻勢に会った人も多いだろう。彼らの情熱にはほとほと感心してしまう。
 
 筆者も最近、こういう人たちの攻勢にいささか辟易している。疑似科学を批判した私の著書に関して「物理学史上最大の間違った説明」であると称して、しつこく質問したり、筆者の回答にあきたりないと、公開で糾弾するという。「物理学史上最大の過ち」というのは、たとえ私がそれを犯したとしても、過大な評価であると思う。私は以前、疑似科学ファンの一人に「日本三大アホバカ」の一人にノミネートされたことがある。私の恩師が「関西三大アホバカ」の一人だったので、師を越えた思った。私はこういった人たちにたいして、ホームページで自分の意見を主張するなり、パソコン通信、インターネットの物理会議室で自分の意見を主張するなりすればよいと述べている。そうすれば、他人の冷静な意見に目を通す機会も増えるというものだ。

 実際、そうした人もいるが、物理会議室で他の人にいかに自説を批判されても、彼らはめげないのである。もはや論理を越えた、いわば宗教的情熱のようなものである。もし相対論が彼らが言う意味での初歩的誤りを犯しているなら、これは物理学的に一大事件であるから、もしそれが本当なら、英語で科学論文を書いて世界に訴えるべきだと私は主張する。反相対論の大学教授は、そのような論文は学界の大勢に反するので、レフェリーを通らないといい、論文をださない。アマチュアの一部は実際に国内の英文物理学雑誌に論文を投稿して、リジェクトされている。それにたいして彼は怒り心頭に発して、編集部をインターネットで糾弾するという。

 例の東芝のビデオに対するクレーム事件以来、インターネットの威力は侮りがたい事が分かってきた。たとえば田中長野県知事に対する、役人の名刺折り事件があれほど急速に、知事の勝利になったのは、インターネットの威力を抜きにして語ることはできない。

科学雑誌とピアレビュー制度

 従来、科学論文は科学雑誌に投稿し、それはレフェリーの査読をへて出版に回された。これをピアレビュー制度(同僚評価)とよんでいる。このピアレビュー制度は、科学の妥当性を担保する基本的なシステムであった。そのシステムによって上記に述べたような疑似科学論文は排除されてきた。ある疑似科学者はそれでもあきらめずに、自分の論文をネイチャーに対する広告という形で発表した。いいかえれば、そうでもしなければ彼には発表の場が与えられなかったのである。

 レフェリーといえど、ふつうの科学者である。その時代のパラダイムに支配されており、異説や新説を排除する傾向が強い。実際、後になって革命的であると評価されるようになった論文が、レフェリーの保守的な態度のためにリジェクトされた例は多い。これはピアレビュー制度の欠陥である。

 また従来の活字メディアにおける出版では、論文の投稿から出版までに時間がかかった。スムーズに行っても数ヶ月、レフェリーや編集委員の怠慢や論争により、時には出版までに数年を要することもまれではない。これでは近年の科学の進歩の速度についていけるとはとてもいえない。ピアレビュー制度に基づく従来の科学研究発表法はそのように光と陰のあるシステムであった。

インターネットの威力と科学研究発表法の変化

 それが近年、大きく変遷しうる可能性が出てきた。科学の世界にもインターネットの力が浸透してきたからだ。まず雑誌の出版をインターネットで行う出版社が増えてきた。投稿論文の原稿も、従来の紙媒体から電子媒体に変化してきた。編集部と著者やレフェリーとのやりとりも従来の手紙から、電子メールに変化してきた。これらによって、論文を受理してから出版するまでの時間が短縮されるようになった。しかしこの変化は単に論文出版のスピードアップという量的効果でしかない。

 もっと重要なものとして、印刷媒体の雑誌の不必要化がある。天文学の分野ではADSのサイトが重要である。これはNASAが無償で行っているサービスで、過去の天文関係の論文をスキャナーなどで取り込んで、だれにでも読める形で提供している。こうなると紙媒体の雑誌を買う必要がなくなる。今までは、膨大な数と量の雑誌をどう保管するかに図書館は頭を悩ましてきた。それは筆者の研究室とて同様である。それが論文はインターネットで読めるとなると、雑誌を買う必要性すらなくなる。つまり研究資金と施設に恵まれた職業的研究者でなくても、すくなくとも理論的研究に関しては、それを行うチャンスがアマチュアにも巡ってきたのである。

 もっとも雑誌社は雑誌がうれないと困るので、あまり新しい論文はADSに取り込むことを許可しないという制限はある。しかしそれとて、後で述べるxxxでプレプリを読めばよいのである。ADSは引用文献数のデータものせると言った付加価値も提供している。これでは通常の紙媒体の論文雑誌が対抗できるはずもない。インターネットの発明はグーテンベルクの印刷術の発明以来の革命であるとする説があるが、あながち誇大な表現でもない。

だれでも投稿できるプレプリサイトの登場(注1)

 しかしもっと革命的な変化は、たとえば物理学におけるhttp://xxx.lanl.govのようなプレプリント・サイトの登場であろう。プレプリント(プレプリ)というのは、まだ雑誌に発表される以前の論文を私的な形で回覧するものである。そのメリットは速さと、レフェリーの意見とは関係なく自説を発表できる点にあった。とはいえプレプリは、紙媒体の論文を私的に配るものであるから配布先が限定され、それも物理的にもあまり多い数にすることは困難であった。つまり科学者大衆の目に見える形での発表ではなかった。

 ところがxxxのようなサイトに投稿されたプレプリは誰の目にも見えるのである。価格の高い科学雑誌を機関を通して購入して読むことのできる職業的研究者でなくても、アマチュアでも英語力と科学に対する理解力があれば読むことができるのである。さらにいえば、レフェリーの査読無しに投稿することすらできるのである。この点がきわめて重要であると筆者は感じている。つまり従来の科学研究の正統的な発表法、つまりピアレビュー制度の崩壊につながりかねないからである。

 もっともxxxに疑似科学の論文が投稿されているかは知らない。少なくとも筆者が検索した範囲では、見つかっていない。しかし、こういったサイトは将来、玉石混淆の論文で埋まるのではないかと感じている。

研究者評価法の変化

 科学者の評価法として、論文出版件数が重視されている。それは権威ある科学雑誌、つまりレフェリー制度をしいている雑誌に投稿された論文数で数えられる。プレプリントは業績に入れるべきではないとされている。科学者を評価する、論文数以外にもっと重要な指標として引用数がある。ある論文が他の論文に引用された数である。統計によれば、1論文の平均引用数は、分野によって異なるが0.6-0.8程度である。つまり圧倒的多数の論文はほとんど読まれていないと言うことだ。この統計には自己引用、つまり自分の論文で以前の自分の論文を引用すること、も含まれているのにである。

 科学研究も社会一般の例に漏れず、とても進歩または変化が激しい時代になってきたので、引用も従来の科学雑誌ではなく、たとえばxxxのプレプリサイトに載った論文が引用されることもあろう。将来はそれが主流になる可能性もある。そうすると、科学者の評価法も変わってこざるを得ない。つまりxxxにのった論文も将来は業績になるのではないだろうか。

まとめ

 インターネットの発達は論文発表の自由の可能性を増大させ、職業的科学者とはなにかという根本的な問題を提起することになろう。筆者の感じてはここ5−10年で、科学研究発表法の変化、つまり紙媒体雑誌の衰退、プレプリントサイトの興隆、ピアレビュー制度の衰退、科学者評価法の変化などが起きるであろう。

 筆者は本論で、二つの異なることを述べた。疑似科学の興隆とインターネットの科学研究への影響である。関係がないことのように見えるが、しかしこの二つは実は独立なことではない。いってみればインターネットの発達は、職業的科学者の既得権益をおかし、アマチュアでも科学研究発表に参加できるという革命的変化が予見できるのである。新聞やテレビ、雑誌といった従来のマスメディア、つまり既得権益を持った人々だけでなく、インターネットによる情報の流通によって、田中長野県知事、田中外務大臣の人気に見られるように、草の根の民衆の意見が政治にも大きな影響を与えて始めているのである。これらは当然、光と陰の両面があることも確かであろう。インターネットの世界は良いことばかりではなく、犯罪、あるいは犯罪的行為にも満ちあふれている。それと同様に、科学へのインターネットの導入は、疑似科学の興隆といったカオス的状況を生み出す可能性もなしとはしない。

注1

この事に関しては、本記事掲載後に、必ずしもそうでないことが判明した。相対論は間違っていると主張するある人が、実際にxxxに投稿したところ、確かな学者などの推薦を要求してきたという。投稿者は私に推薦を依頼したが、私は学者の良心として、自分の信条に反した論文を推薦することはできないとお断りした。筆者の学生たちがxxxに投稿した場合、レフェリーチェックなどなく、なんの障害もなく受理され、翌日には掲載されたので、何の審査も存在しないと筆者は理解していたのだが、この件でそうではないことが判明した。多分、研究者の所属で判断しているのであろう。というわけで、xxxには何の審査もなく、誰でも投稿できると書いたことは誤りであることをここに記して、お詫びする。