タリバンの崩壊、田中真紀子外相、田中康夫長野県知事・・・メディア報道のいい加減さと批判的思考について

タリバン崩壊とマスメディア報道の先見の明のなさ

北部同盟の手でアフガニスタン北部の町マザリ・シャリフが陥落して、数日後には首都カブールが陥落し、タリバンは壊滅状態になり逃走した。その日に書店の店頭に並んでいた雑誌「アエラ」では、アフガン特集があり、朝日新聞の軍事評論家である田岡俊二が、タリバン兵は精強であり、アフガン情勢は膠着するであろう事、アメリカは泥沼に陥るだろう事、マザリ・シャリフすら陥落していないこと、などなどを論じていた。さらに何週間かすぎた店頭に並んでいた月刊誌には、アフガンで昔、戦ったとかいう日本人兵士の同趣旨の論文があった。これらの見事な予想外れは滑稽と言うよりか、悲惨ですらある。

 テレビにおいても同様である。アフガンでの戦闘の当初、多くのテレビ局はアフガンで昔、戦った旧ソ連軍の将校とか、日本の軍事専門家、中東専門家、先の日本人兵士を登場させ、タリバン兵の強さを強調し、アメリカはベトナム同様の泥沼状態に陥ると予想して見せた。

ジョージ・フィールドのみが正しい予想をした

 私の知る限り、正確な予想をしたのはテレビ番組「ウイークエンダー」のコメンテーターであるジョージ・フィールドのみであった。その番組でもおきまりの旧ソ連将校のインタビューなどを紹介し、他のコメンテーターは紛争長期化の予想を述べたが、フィールドはきっぱりと、この戦争は早期にアメリカが勝つと断言した。その理由は、ソ連軍のアフガン侵攻では、アメリカがアフガン側についたが、今回はタリバンを支援する国はないこと、第二に当時のソ連軍と違って現代のアメリカ軍はハイテク兵器を装備していることなどであった。

 その予想は見事に当たった。12月15日の「ウイークエンダー」ではアフガン問題の総括番組を行った。その中で旧ソ連軍将校や中東専門家は、なぜタリバンがあっさり崩壊したかを解説していたが、そんなことは先に言えと言いたい。多くのマスメディアや評論家の意見なるものはいつもかくのごとく、現状追認型なのである。そのなかで先見の明を指摘されたフィールドは破顔一笑していた。ここで言うのも変だが、私は当初から、フィールドの言い分がもっともであると考えていた。

先見の明のなさは諸外国でも同じ

 先見の明のなさは日本のマスメディアだけの現象ではない。アメリカでもニューヨークタイムスを始めとするほとんどのメディアが、間違った予想をしたことが問題になっているという。この現象は今に始まったことではない。湾岸戦争においても、開戦前のニューズウイークの記事を読んでいたが、ソ連軍に指導されたイラク軍がいかに精強であるか、アメリカ軍はいかに泥沼状態に陥るかを、絵入りで懇切に解説してあった。結果的にはこれらの予想はことごとく外れたのである。さらにさかのぼれば、ニクソンショック、石油ショックの時なども、日本の新聞に登場する評論家は、ことごとく日本沈没の未来像を描いて見せた。ここでの結論は、未来予測は困難であること、マスメディアとそこに登場する識者、評論家のいうことを頭から信用してはいけないこと、自分の頭で批判的に考えようと言う教訓である。

新聞の田中真紀子攻撃

 ここで話を田中真紀子外相の問題に転ずる。小泉内閣ができ、その目玉として田中真紀子外相が登場した。田中外相が真っ先に手がけたことは、外務省の機密費問題と外務官僚の腐敗体質の追求であった。それに対して外務官僚は当然の事ながら、田中外相に反旗を翻し、両者の戦争が勃発した。外務省の味方は小泉首相を除く官邸、自民党などであったが、奇妙なことに、新聞(と一部週刊誌)はここで明らかに反田中陣営に回った。外務官僚はリークをつづけ、新聞はそれを掲載して、徹底的に田中外相の足を引っ張ることに専念した。悪事を暴かれて困る外務官僚が反田中なのは当然であるが、普段は反官僚の論陣を張り、公務員の腐敗を糾弾する新聞や(一部の)週刊誌が、ここではどうしたわけか、官僚サイドについているのである。田中外相の「資質問題」を言い立てる新聞だが、それでは英語もろくにできない、歴代の外相はすべて田中外相より資質が優れていたのか。新聞はここまで外相を批判したか。外務省の腐敗体質を暴こうとしたか。田中外相の足を引っ張ることは、結果的には、外務省の腐敗体質の擁護になるのであるが、新聞はそれを望んでいるのか。国民サイドとしては、非常に理解困難な事態である。

新聞はノー、国民はイエス

 ここで毎日新聞12月8日朝刊の「近聞遠見」と題するコラム記事で毎日新聞の岩見隆夫編集委員が書いた記事を引用しよう。「田中外相については、7ヶ月余、新聞批判が絶えることはなかった。主要6紙の社説は、筆をそろえて外相更迭を求めるか、更迭に言及している。だが小泉首相に更迭の意志はなさそうだ。自民党首脳の一人は『あの人気ではねえ。切るに切れない』ともらした。11月19日付『毎日新聞』世論調査によると、田中支持が70%(5月調査で80%)で、いくらか目減りしたとはいえ、圧倒的人気だ。しかも、この時の内閣支持率75%が、更迭すると、60%まで下降する、という調査結果も出た。新聞はノーと主張しているのに、世論はイエス、政治は両にらみである。この乖離はどう理解すべきなのか。理由の一つが一部民放テレビの田中擁護にあるのは確かだが、それだけではない。『新聞の物差し自体がもう古くて通用しないのに、新聞は気づいていない』と言ったのは自由党の小沢一郎党首で、その指摘は謙虚に聞くとしても、政治、新聞、世論の相関関係は屈折した時代に入った。」

 朝日新聞でも諮問機関として「紙面審議会」というものがある。そこで委員の一人が田中外相に対する朝日の批判論調をたしなめていた。それに対する朝日新聞の態度は先の毎日新聞の岩見と全く同じで、聞き置くが、自分たちは間違ってはいないというものであった。岩見の最後の結論を私なりに解釈すると「新聞は正しい方向に世論をリードしようとしているが、愚かな国民はそれに従わない、困ったことだ」という嘆きである。

田中康夫長野県知事と新聞の戦い

 全く同じ構図は田中康夫長野県知事に対する新聞の批判論調にも見られる。田中知事が大きく掲げた政策に脱ダム宣言がある。ところが普段は環境保護を訴え、旧建設省のダム政策を批判してきた新聞が、ここでもこぞって反田中に回っているのである。しかしながら田中外相の場合と同様に、田中知事に対する県民の支持は高い。

 田中知事は新聞に対抗するために、公費を使って特定のメディアに便益を与えることはできないとして、記者クラブ閉鎖の挙に出た。それに対して新聞は抵抗している。秘密を解く鍵の一つに、この記者クラブ制度がありそうだ(文献1)。新聞が田中外相を批判する原因として、記者クラブを通じた、新聞記者と官僚の癒着があるといわれている。新聞記者は伝統的に記者クラブを通じて官僚から情報をいただき、それを報道することを仕事としてきた。新聞社以外のメディア、例えば外国人報道員とか、週刊誌のために働くフリーのジャーナリストは、その利益に預かることができないので、記者クラブに対する批判は強い。記者クラブの利益に浸っている新聞としては、官僚を敵に回すことはできない。だから見かけとは反して、ことあるときは、新聞は政府(官僚組織)の巨大な広報誌と化すのである。

新聞は正に社会の木鐸である

 マスメディア、とくに新聞は自分自身では社会の木鐸であるとかいって、権力の監視を使命としているといっているが、その実は第四権、つまり司法、行政、立法の三権につぐ第四の権力である。自民党の抵抗勢力といわれる人々と同じく、社会における現状の大きな既得権益層になっているのである。ところでこの「社会の木鐸」という言葉であるが、木鐸という言葉を広辞苑で引くと『@木製の舌のある鉄でできた鈴。中国で、法令などを人民に示すとき鳴らしたもの。A世人を覚醒させ、教え導く人』とある。新聞はAの意味で使いたいのであろうが、@の意味とするとまさにぴったりである。つまり新聞とは政府の巨大な広報誌であるということなのである。

日本人はマスメディア報道を信ずる割合は世界

 以前の私の少年犯罪に関する記事で、日本人はマスメディアを信じる割合が、飛び抜けて高く、世界一位であることを示した。この値が高いのはほとんどが発展途上国であり、欧米諸国などの先進国は極めて低い。つまり普通の先進国の国民はマスメディアを信用しないと言うか、批判的に思考をする。先進国としては日本だけが、新聞などに対する信頼が異常に高いのである。

新聞の論調に操られない国民は立派

 田中真紀子外相、田中康夫知事に対する新聞の批判にも関わらず、国民がそれに同調しない傾向は、国民が愚かなのではなく、ようやく先進国並にマスメディアを信用しなくなった、批判的思考をするようになったと、むしろ慶賀すべき事なのである。ここで再び、産経新聞の記者であった司馬遼太郎の言葉を述べよう。「新聞は明治以来、正義とか真理を述べたことはない。ただ時代の流行に乗っているだけである。」新聞などのマスメディアはニュースソースとして読み聞きすればよいのであって、そのお説教を聞く必要はない。

1 新聞と記者クラブの関係に関しては「新聞がおもしろくない理由」岩瀬達哉著、講談社文庫Y648、2001年9月発行、648円参照。