ペン習字、硬筆習字

松田卓也

僕がペン習字を開始したのは2000年6月10日のことであるから、かれこれ2ヶ月が経過したことになる。それで結果はどうかというと、全然上達していない。何とも情けない。以前の僕の字よりは格段にましではあるという慰めはできよう。確かに以前よりは丁寧に書いている。しかし達筆だとはお世辞にも言えない。それは一つには、字を見る鑑賞眼があがったことにも原因がある。字はどう書くべきかという理屈は分かったのだ。しかし手が理屈道理動いてくれないのである。

 手本を見て臨書している場合は、自分で見て、ほれ惚れする字が書けることがある。しかしそれは物まねでしかない。自分で手紙なりを書くとどうしてもダメになってしまう。50数年かかって溜まったあかは2ヶ月の掃除では解消しないのだ。

 もっとも慰めもある。最初に買ったペン習字の教科書には、始め、3ヶ月後、6ヶ月後というサンプルがあった。本当は6ヶ月かかるのだ。まだ2ヶ月しか経過していない段階であれこれ言うのは早すぎる。ところで件のサンプルだが、上達しているのかどうか分からない。その著者の字が本当に上手とは僕には思えないのだ。

 ペン習字の本を4冊買った。著者により字体が異なるのに当惑した。もっとも漢字の書き方のセオリーは基本的には同じである。平仮名は人によって異なる。女性の著者の字は女性らしい。大正生まれの男性の字はいかにも男性らしい。つまり水平線の右上がりが大きく、打ち込み、撥ねが顕著で、いかにも達筆そうに見える。それは使用している筆記具も関係しているようだ。件の著者は太い濃い字を書いているが、水性ボールペンを使用しているのではないか。その他の著者の字は細く、極細のつけペンのような気がする。その場合、打ち込み、撥ねは顕著ではない。現代のボールペン習字としてはそれが適当であろう。毛筆ではないのだから千年以上昔の中国の書道の影響からはずれても仕方ない。

 その最たるものは縦書きから横書きへの変化である。横書きにはそれ自体のルールがある。まず字の大小を強調しないこと。字が縦長から四角に変化すること。それからこれが重要と思うのだが、横線をあまり右上がりにしない。かつ横線を全て平行にする。後者は著者により異なる。縦書きをそのまま横にした人もいる。しかし僕が思うに、字の美しさは個々の字の美しさも大切だが、全体の調和が大事だと思う。人間の目は文全体の水平線を素早く捉え、それがそろっていると美しいと感じるのではないか。そのためには横線の右上がりを押さえて、その角度を一定に保つ必要がある。ここが難しい。僕の字を見ると横線がバラバラなのである。縦線を垂直にするのは容易であるが、横線を水平に保つのはきわめて難しい。その理由の一つとして、万年筆は垂直線は簡単に引けるが、水平線には抵抗があることが考えられる。

 個々の字を上手に書くこともさることながら、全体を見渡して、字の大きさの統一、線の平行性の確保、字体の統一、字の間隔の統一などに注意しなければならない。自由文を書いていると練習でつけたメッキがはがれていくのを感じる。地金が出てくるのは困ったことだ。

 僕がペン習字をする目的の一つは学生のレポートに対するコメントを上手な字で書き、学生になめられないことである。学生の字はだいたいが下手であるが、中にはほれぼれする字に出くわすこともある。だいたいペン習字を習った女子学生に多い。

 字の上手下手と書き手の人格、知性には何の関係もない。恩師の林先生や佐藤さんの字を見れば分かる。しかししらないひとの字を見た場合、上手な字を書く人は人格も知性も優れていると思いこみがちだし、その逆も真である。明らかな偏見だが仕方がない。上手な字でレポートを書く学生には好感を抱き、下手な学生には軽蔑してしまう。要するに「字が上手で損をすることはないし、下手で得をすることはない。」これが僕の昨今の持論だ。しかしこれを胸を張って学生に言うには、さらなる修行が必要だ。