清水郁夫先輩が71才でお亡くなりになられた。昨年の11月祭には、お元気に参加いただいたわけだから、先輩が急に亡くなられたことは私にとっては意外である。ご葬儀は1996年9月22日に千葉のご自宅でとりおこなわれた。清水先輩のご生前の、京都大学合気道部へのご指導に感謝したい。ここに私が清水先輩と初めてしりあった経緯とか、人となりとかを記して、清水先輩を偲びたい。
その前に、すでにいろいろなところで述べたことではあるが、私が入部した当時のことに触れておこう。私は昭和36年(1961年)の4月に京都大学理学部に入学した。その当時は、まだ合気道部はできていなかった。私は生来、体が弱く運動も嫌いであった。そこで大学入学を契機に体を鍛えようと志して、家の近くにあった、吹田市の田中先生の道場に入門した。合気道部ができたのはその後のことである。当時3年生であった、工学部土木教室の堀井先輩を中心として合気道部をつくろうという機運が生まれ、私もそれに参加することになった。堀井先輩も田中先生に合気道を習っていたことが契機となり、田中先生にご指導を仰ぐことになった。堀井先輩が主将、小沢先輩が副将であったと思う。次の年になって、主将交代になったが、私の上の学年はいなかったので、私が2年生ではあったが主将に就任した。ちなみに次の年には、同学年の長谷川君に主将を譲った。したがって私が2代主将、長谷川君が3代主将になっているが、同学年である。
清水先輩と初めてお近づきになったのは、このころのことである。清水先輩は厳密な意味では京都大学合気道部の先輩ではない。なぜなら先輩が大学におられたころは、京大に合気道部は存在しなかったからである。しかし清水先輩の京都大学合気道部に対する真摯なご指導から見ると、日常生活に埋没した、私を含む多くの怠惰な「先輩」などより、はるかに先輩らしいと思う。 当時、清水先輩は合気道部とは無関係に合気道を修行しておられた。しかし京大に合気道部ができたことを知られた先輩から、たしか堀井さんを通じて連絡があり、京都に来られた。私が清水先輩のことで、いちばん記憶に残っているシーンは、京都駅に先輩を見送りに行ったことである。当時、大阪と東京の間をつなぐ、最高速の列車は「こだま」であった。といっても、現在の新幹線のそれではなく、在来線の上を走っていたものである。東京、大阪間を6時間で結ぶという(当時としては)画期的に高速の列車であった。先輩がそのあこがれのこだまに乗られた姿が、どういうわけか今でも鮮明に覚えているのである。学生ごときが乗れるような列車ではないのである。私が主将として、関西大学の主将と東京の学生合気道連盟に連絡に行ったときは、在来線の夜行で行った。そのとき関大の主将からウイスキーを勧められ、吐き出したことも鮮明に覚えている。
ところで清水先輩は、今だから言えるが、当初は合気道はあまりお上手には見えなかった。ただ合気道に対する熱意だけが見られた。ところが後年、師範にまでなられ、その技のすばらしさはみなさんもよくご存じのことと思う。ということは、先輩は私などとは違って、合気道をこつこつと、仕事の合間にずっと続けてこられたという事である。合気道が職業ではないのだから、そのことだけでも称賛に値する。 清水先輩の当初の印象はこわそうなおじさんということであった。当時の私は世間知らず礼儀知らずの(これは今も変わっていない)、まだ19才の若造であったのだから(これは変わってしまった)、18才年長の先輩は、まさにおじさんであって、どういう口をきいたらよいのか、分からなかった。後年になって、とくに私が合気道部の部長になって、三菱の合気道部との合同練習のことなどで、清水先輩と親しく話をするようになって、「こわそうなおじさん」という印象は薄れていった。
清水先輩はとても柔和なインテリの紳士であり、かつての文学青年でもあった。清水先輩は、軍国教育を受けたにも拘わらず、思想的にはリベラルなかたであった。このインテリ、文学青年潟xラルという言葉が、清水先輩の人となりを物語ると思う。清水先輩は仏文を専攻され、私の分類では「文系知識人」である。「理系知識人」の私とは、知の体系が異なるので、一般的には話は通じにくいが、清水先輩は本来は理科志望であり、話は通じるのである。(私にとって尊敬するもうひとりの巨大な文系知識人は井尻先輩である。この人は純粋に文系であり、話は通じない。)この文学青年の清水先輩が合気道の師範になられたのだから、まさに文武両道に長けた理想的な人物像であると思う。
清水先輩の文学青年としての姿は、この「大和」にいつも寄稿されていたこと、日頃こつこつと書きためられた文章を「旅衣」と題する自費出版の本にまとめられたことなどでも分かる。徳島中学在学中は理系を志望されたらしいが、病気のために理系の勉強についていけずに、旧制の姫路高校の文科に入学された。ドイツ語専攻であった。旧制姫路高校は神戸大学の前身の一部であるから、現在、神戸大学に奉職する私にはその意味でも関係が深いのである。昭和20年には学徒動員で陸軍に召集され満州に送られたが、病気のために後送されて、そのために生還された。戦後は京都大学の仏文に進学された。卒業後、明治生命に奉職され、定年間際には外資系の会社に転職された。清水先輩はその間、全三菱合気道同好会を指導された。
清水先輩がリベラルであることは、大和に書かれたその文章から読みとれる。戦前、戦中に皇国史観や戦争賛美をした知識人が、戦後はころっと転向したことにひどく憤りを感じておられる。また昨今の一部の政治家の中に、「大東亜戦争肯定論」や「南京大虐殺否定論」を唱える、アナクロニズムな人が散見されることにも、ケーベル博士が「日本人の精神の最も醜い面は自己認識と批判的能力の欠如だ」といった文を引用して、心を痛めておられる。まったく同感である。
戦前、戦中の軍部、特に陸軍の幹部ほど、どうしようもなく不合理な精神を持った人種はいないであろう。現実認識を全く欠いているのである。彼らは国の指導層として、この国を戦争に引き込み、未曾有の惨禍を招いたのである。しかし、かれらは戦争裁判にかけられ有罪になったものは別として、まったく責任を取っていないし、責任を感じていないのである。それでは彼らは頭が悪かったかというとそうではない。それどころか、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学を卒業したものは、当時のエリート中のエリートであったのであり、試験秀才なのである。(私の京大時代のボスが陸軍幼年学校出身で、その特徴を彷彿とさせる。)現在でも同様で、陸軍秀才に対応する受験秀才の指導的エリートの引き起こした犯罪が、薬害エイズ事件であり、大蔵省の腐敗なのである。彼らは決して責任を自覚しないし、責任を取ろうとしないことも、戦前の陸軍幹部と同様なのである。日本人の最も醜い面は改善されていないことに、清水先輩も暗澹としておられたのではないだろうか。
私は非合理な精神を憎み、批判的精神の欠如をうれうる点において、清水先輩に全く同感する。清水先輩のご冥福をお祈りしたい。