ジャパンスケプティックス・ニューズレター・原稿
「科学的思考、定量的思考、批判的思考」・・・
オピニオンリーダー、マスメディアに見られる感覚的、非科学的議論
最近、青少年の凶悪犯罪は増えたか・・・いや実際は激減した
最近、青少年の凶悪な犯罪が増えた。神戸の「酒鬼薔薇」による殺人事件、京都の「てるくはのる」による殺人事件、5000万円の恐喝事件、バスジャック事件等々。昨今の青少年による凶悪事件の増加は憂うべきものがある。いったいその理由はなんだろうか。教育の崩壊か、家庭の崩壊か。
さて、上記の記述を、みなさんはどう思うだろうか。昔と比べて、最近は青少年の犯罪、特に殺人のような重大な犯罪が増加したというのは本当であろうか。事実は全く逆なのである。ここに1955年から1995年までの、19歳以下の青少年の、殺人による検挙数の年次変化がある。それによると1955-1965年までは検挙数は年間400のあたりを推移していた。しかし1970年ころを中心に急速に減少して、1975年にほぼ100以下程度になり、1975-1995はほぼ一定のまま推移しているのである(文献1)。最近、青少年による殺人事件が増加したという統計的、定量的証拠はない。
何故青少年の凶悪犯罪は増えたと思うか・・・マスメディアの洪水的報道
それではどうして、最近少年犯罪が多いと感じられるのだろうか。それはたぶん、マスメディアによる報道が増えたからであろう。昔はメディアの数も少なく、また他の重大事件、犯罪も多くて、少年犯罪はあまり報道されていなかった。当時は些細であった問題を、今は大きく取り上げる余裕が出てきたのである。その極端な例として、ミッチー・サッチー事件がある。私人の喧嘩という、まったくどうでもよい些細な「事件」が数ヶ月もマスメディアの話題を独占するほど、現在は「平和」な時代なのである。そこで少年による猟奇的殺人が起きると、洪水的な報道がなされるのである。現在の青少年による殺人件数がかりに年間100件だとしよう。すると3日ないしは4日に一件と言うことになる。これらは現在の風潮では、新聞、テレビ、週刊誌で事細かに報道されるであろう。3−4日に一度である。そうすれば人々は青少年犯罪の驚くべき増加と感じるであろう。しかし昔は1日に一件以上あったのである。
なぜ青少年の凶悪犯罪が減ったか・・・仮説
それではどうして、現実には青少年の殺人事件は激減したのであろうか。日本人の一人あたり平均所得の年次別変化を見よう。それを見ると1960年では年間10万円であったものが、1970年に50万円、80年に150万円と毎年、単調増加を続けて、最近は300万円強になっているのである(文献1より)。そこで平均所得と青少年の殺人事件数には、きれいな反相関の関係があることが見て取れる。つまり古典的な仮説、「犯罪は貧しさのせいである」とする考えの方が、遙かに説得的ではないだろうか。
私はここでこの仮説を主張したいのではないし、青少年犯罪を論じたいのでもない。言いたいことは、人が何らかの主張をした場合に、その主張にはどんな根拠があるのかと尋ねることは大切だということだ。最近、青少年の凶悪犯罪が増えたという「感じ」はあっても、その主張には定量的「根拠」がないのである。
90年代は1930年以降最悪!?・・・船橋洋一朝日新聞編集委員の非論理的意見
あるパネルディスカッションで朝日新聞の船橋洋一編集委員が次のような発言をした。「1930年以降で、90年代ほどひどい十年間はなかったんじゃないでしょうか。90年代は世界にとっても試練の10年だったが、とりわけこの日本には精彩がなかった。それは結局、リーダーシップがない、ということにつきるのではないか。」(文献2)船橋氏のこのような発言は、マスメディアに登場する知識人たちによく見られる典型的な発言の一つである。
私の言いたいことが、みなさんには分かるだろうか。いったい彼はどんな「根拠」で90年代の日本が、1930年以降でもっともひどいという発言をしたのであろうか。「ひどい」という言葉の「定義」あるいは「尺度」は何なのであろうか。どのような「定量的尺度」で測ってそういうのか。日本国民の一人あたり所得か、戦死数か、病死数か、平均寿命か、幼児死亡率か、犯罪数か。そのいずれをとっても、1940年代の太平洋戦争中および終戦直後と比べてみると、1990年代の日本は天国と言ってよいであろう。私はなにも1990年以降の日本に問題がないと言っているわけではない。しかし、どの指標から、船橋氏のような発言が出てくるのか、その「根拠」を知りたいと思う。
もちろん、私がそんなことを言うと、彼は当然そんなことではない、君はなにも分かっていないというだろう。90年代の日本には、リーダーシップがなかったことが、「ひどい」ことの原因と述べたではないかと。それでは東条英機に代表される軍人のリーダーシップ溢れた戦時中、あるいはリーダーシップに富む吉田茂首相が活躍した戦後すぐの時代が、もっともひどくない時代であったのだろうか。
定量的に議論しよう。国民一人あたりの所得の時間変化を詳細に調べると、1990年までは一本調子に増加してきたのが、あきらかに1990年でグラフの勾配が変化しているのである。つまり経済成長率が鈍化したと言うことだ。しかし、それにも関わらず一人あたり所得は1990年の300万円弱から1998年の300万円強と、確実に「増加している」のである。一人あたり所得が国民の幸福度の尺度と定義すれば、それは明らかに1990年以降も増加している。しかし経済成長率がその尺度と定義すれば、それは減少している。経済成長率が鈍化したことが、1990年以降の日本が、もっとも「ひどい」という言明の定量的根拠だとしたら、彼はどんな日本を期待しているのだろうか。現代日本に有り余る物質、レストランでの食べ残し、これらをさらに増やせば、ひどくなくなるのか。
問題があるから良い!?・・・石川好氏の発言
別の例を挙げよう。テレビ朝日のニュース・ステーションという番組で、外国人の単純労働者に対して国を開く、つまり移民を受け入れることが是か非かという論争が、評論家の石川好氏と解説員の間で交わされた。石川氏はよく知られた開国論者である。マスメディアで昨今よく言われるように、日本は少子化の時代を迎え、今後老齢人口が増える。従って日本の活力が減少する。それを救う一つの方法は、移民を受け入れることである。
それに対して、解説員氏は、技術者、専門家などの外国人を受け入れることは問題ないし、現在もすでに受け入れている。しかし、単純労働者を受け入れることは、文化摩擦などの問題があると、主張した。それに対して石川氏は「問題があるから良いのだ、問題があるからおもしろいのだ」と述べた。解説員氏は、単純労働者の移民を受け入れると、将来の日本のGNPは確かに増大する、しかし一人あたり所得は確実に減少するという定量的試算を述べた。それに対して石川氏は、「問題があるから良いのだ」という意味不明の発言を何度も繰り返すだけであった。
そもそも移民を受け入れるという政策の転換をしようというのは、何らかの問題、たとえば社会の老齢化を解決するためにするのではないのか。問題があるからよいというのなら、「老齢化、少子化という問題」を楽しめばよいのではないのか。石川氏に言わせれば、そんなことではない、文化摩擦という問題があっても、そこから何か新しいものが出てくると言いたいのであろう。私はここで移民問題、老齢化、文化摩擦の是非を論じるつもりはない。石川氏が「問題」があることはよいと発言するときに、その「問題」とは何かをはっきりと定義してから議論して欲しいと言うことだ。よい問題はよいし、悪い問題は悪いのである。どの「問題」を「問題にしているのか」、そこをはっきりさせないと議論にならない。
マスメディアに登場する知識人たちの感覚的、情緒的発言
マスメディアによく登場する知識人、文化人、評論家、コメンテーターの発言には、このように感情的、感覚的、情緒的発言が多い。科学的、定量的な根拠を欠いた、「私はこう思う、こう感じる、だからそれは正しい」と言ったたぐいの発言である。私は彼らの胡散臭さを、ニクソンショック、石油ショック、円高ショックの時に見られたマスメディア、経済評論家の言動から学んだ。当時彼らは、いかにも日本が今にも沈没すると言ったたぐいの発言をした。トイレットペーパー騒動の責任は彼らにあるのだ。しかしその後の日本は彼らが予想したようには進まなかった。一人あたり所得も、平均寿命も、単調増加を続けたのである。
これらが「幸福の指標ではない」と、感覚的文化人ならきっと言いそうだ。それならそれで、幸福とは何か、ひどいとは何か、それをどう測定するのかを言わなければならない。もし幸福度、ひどさを測定する尺度がないというのなら、日本人が幸福になったかひどくなったかは分からないというのが、正しい態度であろう。
ともかく議論は感覚的ではなく、論理的に行わねばならない。議論をする前に、言葉の定義、ものごとの尺度をはっきりとさせてもらいたい。そうでなければ、議論は完全にすれ違いに終わるだけだ。もしそれが定義できないと言うなら、分からないと答えるのがもっとも正直な発言であろう。上記のような感覚的文化人が日本のオピニオンリーダーをつとめていることが、日本の不幸であると思う。
真理はマスメディアの言うことの反対あたりにある
私は、真理は、こういったマスメディアや評論家の多くが言うことの、ほぼ180度反対あたりにあることが多いと思っている。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉がある。「大嘘も、みんなで言えば、本当らしい」のである。ここから得られる教訓は、新聞やテレビなどのマスメディア、またそこによく登場する知識人、文化人、評論家、コメンテーターなどのいうことをそのまま鵜呑みにしてはいけないと言うことだ。つまり何事も眉につばを付けて聞くこと、批判的に聞くことだ。一度は自分の頭で考え、科学的な定量的データを探し、批判的に物事を見ることの大切さである。これがスケプティック精神であると思う。
最後にもと新聞記者であった作家の司馬遼太郎氏の言葉を。『日本において新聞は必ずしも叡知と良心を代表しない。むしろ流行を代表する』
文献
1. 岡本祐三、加藤仁、高山憲之、「エイジングの醍醐味、成熟社会への転換」、縁、No.93、2000年4月号
2. 塩野七生、「ローマ人の物語」の旅、新潮社