まじめな天文学者のまじめなET探し

ET探しの哲学的基礎・・宇宙における知的生命の地位

ETはいるか

 まじめな天文学者がまじめにETを探そうというのであるが、そもそもE Tなどいるのであろうか。ETがネス湖の怪獣やヒマラヤの雪男、あるいは ツチノコのように、多分に人々の心のなかだけに住む、つまり期待感だけの ものなのか、あるいはもっと確からしいものなのであろうか。これは本当の ところは見つかってしまうまではなんとも言えないというのが、正直なとこ ろであろう。しかしながら、まじめな天文学者がまじめに探しているという のだから、なにか根拠はあるのであろう。

 ETとは地球外生命のことであるが、われわれに興味があるのはやはり知 的生命であろう。あの「エイリアン」にでて来るようなおぞましいやつには 会いたくもない。そのてん「スタートレック」にでてくる「クリンゴン」は 、地球人の敵ではあるが、いきなり食いついてくるわけではなく、話せば分 かるのである。

 地球外に生命がいるかどうかについての意見は、科学者の中でも真っ二つ に別れる。それについて生物学者には否定的な考えの人が多い。生命の巧妙 さを知るだけに、こんなものが偶然にできるはずはなく、宇宙において極め てまれな現象であろうと考える。生命を構成する分子の配列が、このように うまくなる確率は、これこれしかじかで、それはとても小さい。だからこの 地球上の生命が宇宙に存在する唯一の生命であるとしても不思議はないとい うのである。

天文学者の楽観論の基礎・・・平凡性の原理

 それにたいして、天文学者にはだいたい楽観的な人が多い。そうでなけれ ば、ETを探そうなどと言いださないであろう。天文学に支配的な思想とし て「平凡性の原理」というものがある。これはコペルニクスの思想を一般化 したものである。コペルニクス以前の天動説の世界では、地球とその上に住 む人間が世界の中心にいた。ところがコペルニクスは世界の中心は太陽であ ると主張することによって、人間をこの世界の主人公から追放したのである 。コペルニクス以後の天文学は、それをさらに進めて、太陽すら世界の中心 から追放した。そして現在の宇宙論においては、世界には中心とよべるもの がないことを主張しているのである。それにともない、地球も太陽も人間も この宇宙のなかで、とりたてていうほどのものではない、ほんの平凡なもの になりさがってしまったのである。だから、ここに人間がいるのなら、もっ と別のところに知的生命がいても、ぜんぜん不思議ではないと考えるのであ る。つまり天文学者の楽観論は平凡性の原理という哲学に、その基盤をおい ているのである。

人間原理と宇宙の設計

 生物学者の意見にしろ、天文学者の信念にしろ、いまのところは哲学の違 いということができる。そこで私はもっとべつの哲学にたって、楽観論を展 開してみたいと思う。その哲学とは「人間原理」である。

 「人間原理」はなにか。それはさきの「平凡性の原理」に、ある意味では 真向から対決する思想である。ある意味でといったのは、なにもコペルニク ス以来の天文学の進歩に反対して、天動説を復活させようというわけではな いという意味である。しかしべつの意味では、人間原理は天動説の復活にも 等しいということもできよう。人間をふたたび宇宙の中心的地位に戻そうと いうのであるから。

 どういうことか。人間原理をひとことでいえば、「この宇宙がこのような 姿をしているのは、それは人間がいるからだ」という主張だ。宇宙を認識し ているのは、人間のような知的生命であり、それなくしては宇宙は認識され ない。だから知的生命を生み出すような宇宙のみが認識される。ところがこ の宇宙は認識されているのだから、それは知的生命を生み出すように設計さ れているはずだ。

原因と結果・・・因果律とはなにか

 この主張にはさまざまな捕らえ方があり、ある人にとっては「人間原理は 原因と結果を混同している」と感じられるであろう。実際、もうなん年も前 のことになるが、私に対する批判的なエッセーが、関東にある某T旧帝国大 学の新聞に載っていることを友人が教えてくれた。それによると「松田氏は 昨今、いろいろな本や記事で、人間原理について書いている。( 例えば文献 1) しかしこれは原因と結果を混同したものであり、松田氏が因果律のなん たるかをも理解していない証拠である・・・。」これを読んで、私もT大紙 に論評してもらえるとは、けっこう有名になったものだわいと正直なところ よろこんだ。

 しかしその因果律の大家に対して少し聞きたいが、因果律とはいったいな んなのだろう。私はそれを十分に理解していないことは事実である。むしろ 因果律とはなんであるかというのを理解するのが、私の一生の課題であると もいえるのである。現代物理学では因果律を、いかなる情報も光速以上で伝 わらないことと、特殊相対論的に限定的にとらえている。もし光速以上で伝 わるとすると、時間的に過去に情報を送ることが可能になって、タイムパラ ドックスに陥るからである。( この意味での因果律を破る、興味ある可能性 については文献2、3を参照されたい。)

 しかし彼氏のいう因果律とは、もう少し広い意味の因果律で、「この世の 中の現象にはかならず原因があり、その原因は結果に先行する」といった程 度のものであろう。これはたしかに近代科学の基本的な思想である。この意 味での因果関係を明らかにするのが科学の役割であると通常考えられてきた ことは確かである。

目的因・・・目的が行動を決める

 しかし因果律のそういった解釈だけが幅をきかすようになったのは、きわ めて最近のことなのである。因果律の大家といえばアリストテレスをあげな ければならない。彼は因果律を、能動因、目的因、形相因、質量因の4つに 分類している。あとの2つはここでの議論にあまり関係ないからはぶく。能 動因が、さきにのべた近代的な意味での普通の因果律に近い。それにたいし て目的因とは、目的があって、それにたいして現在の行動を決めるという意 味で、目的が原因で現在の行動は結果になるといったようなものだ。

 この目的因をめぐってアリストテレス以来激しい論争が繰り返されてきた のである。たとえばケプラー、ニュートン、カントといった近代科学の創始 者ですら、目的因の立場にたっていたのである。目的因が敗退したかに見え るのはごく最近のことである。

 現代物理学においては、あらゆる基礎方程式は変分原理というものから導 かれる。これは簡単にいえば、物理法則はある関数( 作用とかラグランジュ アンなど) の積分を極大または極小にするように決まるというのである。な んのことか分からない人のために変分原理の例をあげよう。光の伝播に関す るフェルマーの原理というものがある。それによると、たとえば空気中から 水の中のある点に光が進む時、光は直線上を進むのではなく、最短時間で行 けるように屈折した道筋を進むのである。つまり光はあらかじめ行くべき点 を知っており、最短時間になるように進む道を選んでいるかのように振る舞 うのである。これなどは目的因と解釈することができる。その意味で現代物 理を目的因的に再構築することも可能なのである。

人間原理のさまざまな顔・・・弱い人間原理

 因果律を論ずるだけで、この文のページ数を超過してしまいそうだし一冊 の本にもなるだろう。そこでもとの人間原理にもどろう。人間原理といつて もいろいろのいいかたがある。「弱い人間原理」「強い人間原理」「最終的 人間原理」などである。

 「弱い人間原理」といっても、「弱い人間」の原理ではなく、弱い「人間 原理」のことである。これはアメリカの有名な宇宙論学者ディッケによって 始めて考えられたものである。これは自然界に存在する1040という無次元の 巨大数に関連して考えられたものだが、その詳細を論じる余地はないので、 興味ある人は文献4−6を参照されたい。ともかくかいつまんでいえば、宇 宙が誕生してから現在ほぼ100億年たち、したがって宇宙の大きさが10 0億光年であることと、太陽のような星の年令がほぼ100億年であること は偶然の一致ではないという主張である。というのは宇宙を認識するのは、 地球という惑星の上に住む炭素生命であるわれわれである。宇宙が誕生した ころは、銀河も星もなく、したがって生命はいない。生命が発生するには、 炭素がなければならないが、宇宙にはじめから炭素があったわけではない。 炭素は星が燃える過程で作られ、それが超新星爆発とともに外部に放出され た。だから生命は普通の星の一生程度の時間がたったあとでないと発生しな いのである。だから現在は宇宙のビッグバン後1万年でもなく、千兆年でも ないのである。

 「弱い人間原理」をまとめていえば、「この宇宙の観測される物理量や、 宇宙を規定する量は、どんな値をとってもよいというわけではなく、炭素生 命が発生するようになっており、かつ宇宙は十分に古くなければならない」 ということだ。この原理は原理というよりは、天文学でよく知られた事実、 選択効果のひとつの現れとみなすことができる。

 選択効果とは、観測には偏りがつきものだという事実である。たとえば星 の明るさの分布を研究するとしよう。夜空の星を観測して、ある明るさの星 がいくら、別の明るさの星がいくらと統計をとったとする。しかしこの観測 をそのまま鵜呑みにするのは誤りである。なぜなら明るい星は、遠くのもの でも見えるのに、暗い星は近くのものしか観測されない。だから明るい星を 数え過ぎてしまうことになるのである。つまりわれわれには見えるものだけ が見えるという簡単な事実をよく認識しておかなければならない。

 つまりわれわれの宇宙は人間に観測されているということで、すでに偏り をおびているのである。人間のような知的生命の存在しない宇宙がたくさん あるかもしれない。そんな宇宙での物理定数とか物理法則、あるいは宇宙の 様子は、われわれのものと全く異なっているかもしれないのだ。

強い人間原理

 この主張をもっとおしすすめれば「強い人間原理」になる。この宇宙はす でに観測されているのであるから、この宇宙はその歴史上のある時点でかな らず生命( 知的生命) を発生させるような性質をそなえている。つまり、こ の宇宙は観測者が発生し、かつ生存を続けるような目的をもって設計されて いる。( もちろん、そのように設計されていない宇宙があってもいいが、そ れは認識されない。)

 この種の設計説は歴史上なんども議論されてきたものである。たとえばニ ュートンと同じころに微分積分学を発見したことで有名なドイツの哲学者、 数学者であるライプニッツはつぎのように考えた。「それ自体、自己矛盾の ない多くの世界がありえようが、われわれの住むこの世界は、考えられる世 界の中で最も完全な世界である。」( こんな楽観論とは対照的に、キルケゴ ールという哲学者は、この世界は最悪の世界だと考えた。彼は母親を始めと する女性たちに悩まされたのでこんな厭世的な思想が浮かんだらしい。)

 ところで人間原理でいう人間とはわれわれのことに限っていいのであろう か。いや認識しうるものならなんでもいい。ETであったって、知能を備え たコンピュータであったっていいはずだ。つまり知的情報処理をするものな らなんでもいいはずだ。そこで「最終的人間原理」が登場する。いわく「こ の宇宙には知的情報処理が存在するし、存在しなければいけない。しかもひ とたび知的情報処理が発生すると、それはなくならない。」

 ここまでいってしまうと、いささか胡散臭くなるが、しかしなかなか楽し いではないか。P.ケネディの大著「大国の興亡」を読むと、アメリカ、ソ 連はこれから没落し日本、中国が伸びると予言されている。本当かどうかは 知らないが楽しいし自信がつくではないか。それと同様に「宇宙文明の興亡 」を予言してみよう。ここからの話は私のホラ話ととってもかまわない。

宇宙文明の発展法則

 宇宙、地球、生命、人類、文明などの歴史を観察してみると、そこにひと つの法則性があることに気付く。それは進化の存在である。進化とはたんな る変化ではなく、より高度な、複雑なもの( 部品の多いもの) への非可逆的 な変化である。私は進化の原動力は宇宙膨張にともなう温度低下にあると考 えている。温度が低下すると、より低エネルギーの結合系( システム) が発 生する。宇宙の歴史を見れば、時間的に素粒子、原子核、原子、分子、高分 子、単細胞生物、多細胞生物が発生してきた。その他に重力の結合系として 、銀河団、銀河、星団、星、惑星が誕生したことはいうまでもない。

 多細胞生物も原始的なものから高度なものに進化し、その最終段階に人間 がいる。人間はさらに社会というシステムをつくり、その社会自体も原始的 なものから現代文明のような高度なものまで発展してきた。

 さらに興味あることは、その進化の速度についてである。宇宙の進化の速 度は始めが速く、あとはゆったりしたものになっている。ところがそれ以外 は後になるほど急速に進化しているのである。地球の歴史しかり、生命の進 化しかりである。人類についていうならば、人類が発生したのは数百万年前 、農耕文明が発生したのは数千年前、工業文明の始まりはせいぜい数百年前 、そして現在のトレンドである情報文明はせいぜい数十年前からはじまった 。

超人類への道

 そしてそれぞれの変化が、いわば氷から水、水から水蒸気への相転移のよ うに、質的に異なったものへの転化なのである。この傾向を押し進めるとど うなるのであろうか。私は近い将来に人類文明の相転移が発生すると考える 。それはなにか。超人類の発生である。( 新人類ではない、それはもう発生 している。) 超人類といっても頭が異常におおきくなったとか、エスパーに なったとかいう類のものではない。そんなのは想像力の貧困である。人間の 個人の肉体的能力とか、知的能力には限界があり、それはほぼ尽くされてい ると考える。

 しかし集団としての人間の能力はもっとすごいものになるであろう。しか も人間の身体の一部をサイボーグ化したり、コンピュータと連結して、巨大 な人間・コンピュータ・コンプレックスを形成するのである。まあ蟻とか蜂 の社会を考えたらいい。そこに一つの意識のようなものが発生するのである 。超意識である。現在の社会でも、好むと好まざるに係わらず、国家の意思 のようなものが存在する。それがヒトラーのような独裁者一人の意思である 間は、生物でいえば脳の小さい生物である。しかし国民の間に蔓延した意思 となると、これは人間の脳細胞を連想させる。それが人間・コンピュータ・ コンプレックスたる超人類の意思となると、どんなものであろうか。さらに 超人類が進化すると、生身の人間は構成要素として不適格になり、シリコン やらバイオやらのコンピュータとロボットの結合体となるであろう。

超ETとの対話

 さてさて話がとんでもないところまで飛躍してしまった。話の本筋はET であった。私がここで述べたかったことを纏めると、つぎのようになる。E Tは多分いるであろう。しかし彼らの発展段階とわれわれのそれが一致する 確率は極めて小さい。かれらと出会ったとしても、よくてネアンデルタール ET、わるくすればあのこわーいエイリアンである。クリンゴンである確率 は小さい。また逆にかれらが、われわれより進んでいるとすると、超ETで ある。とてもお話のできる相手ではないのである。譬えてみれば、私はたく さんの細胞からできている。その私の指の皮膚の細胞が私に話かけても、対 話は成立しないであろう。知的( ?) レベルも興味の対象もまったく異なる からである。

 というわけで、まじめな天文学者の森本さんや平林さん、寿岳さんには水 をさしてしまった。それでも私は、その超ETがなんとかして私に密かに接 触してくれることを、いまも待っているのである。実は。

文献
1 これからの宇宙論、松田卓也著、講談社ブルーバックスB542
2 時間の逆流する世界、松田卓也、二間瀬敏史著、丸善フロンティア・サ イエンス・シリーズ13
3 時間の逆流する世界、松田卓也、二間瀬敏史、雑誌「パリティ」丸善、 1989年3月号
4 相対論的宇宙論、佐藤文隆、松田卓也著、講談社ブルーバックスB24 1
5 人間は宇宙の中心かー人間原理をめぐって、松田卓也、雑誌「科学」、 1984年第54巻7号、岩波書店
6 巨大数と宇宙の調和、松田卓也、「天文月報」1984年第77巻8号
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