合気道と私

田中先生がおなくなりになられた。京都大学の合気道部、関西の合気道の歴史のひとつの 転換点となるであろう。一昨年、吹田のメイシアターでお会いしたときは、ご老人になら れたとはいえ、またまだお元気であられたのに残念なことである。お年をお伺いすると「 わしは年のことをいうのはいやなんや」と笑いながらも、結局は教えてくださったが。

私と先生の出会いは、私が大学に入った年、つまり昭和36年のことであるから、もう 28年も前のことになる。それまでの私は病気がちなひょろひょろの子供であった。やっ と大学に入れたのだから、これからは体を鍛えなければならないと思って、なにか運動を しようと決心した。私の家は東淀川区の相川と言うところにあり、吹田の隣である。吹田 の高浜神社の向かいに大阪合気会の道場があるのだが、高浜神社のお祭りは子供の憧れの 的であり、だから道場の存在も知っていた。たまたま高校の同級生が、吹田の道場で合気 道をしているときき、さっそく紹介してもらった。ところが、ちょうどその時点は吹田の 道場にとって大きな試練の時であったのだ。それまでの弟子の多くが、東京から来られた 某先生にごっそりと引き抜かれ、ほとんどがらんがらんになってしまっていた。実際、私 などもくだんの友人が引き抜かれたため、そちらの道場に行くように勧誘を受けたくらい である。しかし私はどちらの先生にも義理はないのだから、単に近い便利なほうを選んだ に過ぎない。

 吹田の道場で正式に練習したのは多分、数ケ月のことであろう。というのはそのころ、 やはりかつて吹田の道場で練習したことのある堀井先輩を中心にして、京都大学合気道部 が結成されたからである。その時も、やはり吹田道場を抜けて某先生のもとに走った某大 学合気道部の主将が、京都大学の合気道部をそちらに引き込もうと努力したらしい。しか し堀井さんと私が田中先生に合気道を学んだということが利いたのであろうか、結局は田 中先生を師範にお迎えすることになったのである。それから28年後の大阪合気会の興隆 を見ると、田中先生の単に武道家としての才能だけではなく、経営者としての才能をも見 るのである。

吹田道場に通っていた頃、練習前や後に先生は高弟を相手によく座談されていた。その ときの言葉で印象的なのは「初心者を相手に練習をつけるときは柔らかくしなさい、けっ して頭を打たせてはいけない。そんなことをするといやになって練習をやめてしまう」と いうのがあった。実際、某高弟はめっぽう強いので尊敬をしていたのだが、その練習もめ っぽうえぐいものであった。私などもなんども頭をうっていやになったかしれない。その ときの先生の言葉は初心者の私には心強いものであった。「上級者が下級者に四方投げを かけて、ほとんど完全に決まった状態から、相手をちからまかせに畳に叩きつけるような ことは、意味のないことである。重要なのは極める直前までである」とも言われた。

合気道部のような組織の経営には会社経営と似た面もあるであろう。正直な話、2回生 で主将を拝命した私は、合気道部の経営に成功したとはいえない。部員がなにを望み、な にを考えているかをつかめなかったからである。合気道部は徴兵ではないのだから、ただ ただ厳しくしてもだめである。しかし無原則に緩やかにしても意味がない。合気道部に入 る人は、からだを鍛えるとか、強くなりたいという目的を持っているのだから。その私が 大学の教官程度しかできず、合気道部興隆の基礎を築いた松山君がビジネスマンとして成 功しているのは、当然のことといえよう。


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