合気道部の思いで

 

昔、私が京都大学の学生であったとき、合気道部に属していた。その思いでを、記憶を手繰りながら書くことにする。私が2代というのは、2代目の主将になったからなのであるが、実は3代とは同級なのである。つまり私は2回生の時に主将になり、3回生で長谷川君に主将の座を譲ったのである。どうして2回生で主将になったかというと、初代の堀井さんたちと私の代の間に人がいなかったからである。ぜんぜんいなかったわけでもないのだが、やめてしまって残らなかったからである。私が主将で荻野君という理学部の人が副将であった。荻野君は後にやめて小林寺拳法に変わってしまって、名簿にも残っていない。会計は長谷川君であったとおもう。同級生としては、ほかに次代の副将になった保坂君、桜井君がいる。主務は今井君という農学部の1年生のひとであった。彼はなかなかよくやってくれたのだが、けっきょくはやめてしまった。今井くんはその後も京都大学に残っておられたはずであるが、今はどうしておられることか。

 辞めた人といえば、私の1代下の木村君のことも思い出す。木村くんは薬学部で助教授をしており、家も高槻で同じ方向であったので、後にも良く出会った。今はたしか京都薬科大学の教授である。さらに2代下の熊本君は、北野高校の後輩でもあり、現在は機械工学の助教授である。私には辞めていった人のことが、しばしばおもいだされる。辞めるということは、やはり意思が弱いのであろうが、自分の意思もあまり強くないので、そんな意思の弱い人に親近感をおぼえるのである。

 私の代の始めのころは、練習は頂妙寺という東山二条にあるお寺で行われた。町道場であるので、一般の人に混じって練習するのである。主将でありながら練習に遅れて、田中先生に文句をいわれたこともある。そのうちに練習は教養部にある養気館という、合気道にはなかなか適した道場に移った。しかし剣道場との境になにもないので、恐ろしく煩く先生の言われることもほとんど聞こえないというような現状であった。

 代稽古には川津さんという内弟子の人がこられたが、この方もどういうわけか、途中で合気道をやめてしまわれた。この人はとても背が高く、私が受身をとらされると、高いところから落下するので閉口したことがある。川津さんの前にもたしか林さんという内弟子がおられたのだが、この人も辞めてしまわれた。私の爪が伸びていて、林さんの腕にみみず腫れをつくったことをおぼえている。代稽古はその後、国学院か国士館かをでて、伏見稲荷につとめる神職の人になった(名前を失念してしまい、失礼)。このひとの練習は、東京の私学の合気道部の雰囲気をのこすものであり、練習方法も田中先生のものとは、かなり違っていた。農学部にある旧スポーツ会館で合宿したときに、石炭ストーブの火を気力で燃え立たせてみせるといわれた。もっとも、私の目にはなにもおこらなかったようだった。この方も伏見稲荷の内紛かなにかで、結局は辞めてしまわれた。

 夏の合宿は高野山で行われた。その宿坊のお坊さんは無外流居合道をやっておられた人だ。同じ宿に泊まっている人のなかに高木流柔術をたしなむ人がいて、その技を教えてくれた。相手が正面から切りかかるときに、相手の前面に腰を落として鳩尾に当身をいれるというわざであった。剣をふりおろした相手の両手の間から、相手の目をきっと睨むのがこつですともいわれた。後に映画「ふくろうの城」で、忍者に扮した市川雷蔵がこのわざをみせたのには驚いた。もっとも田中先生は、合気道の万能を信じておられるようで、こういった古武道には関心を示されなかった。

 冬の合宿は伊丹の自衛隊ですることにした。私には適当な場所のあてがなかったので、田中先生に相談したら、そこをいわれたわけだ。田中先生が教えに行っておられた関係であった。しかし自衛隊で合宿するなどとは、現在でも抵抗があろうが、学生運動の盛んな当時では論外であったとおもう。結局は中止して、吹田の道場で合宿したのだが、これでかなり部員が辞めてしまった。今ふりかえっても残念なことであった。田中先生には、学生の感覚はお分かりにはなれなかったであろうし、親切で言われたことでもあろう。しかし、私はやはりきっぱりと断るべきであったとおもう。このあたりが、私の意思の弱さであった。というようなわけで、私の代は部員を失う歴史であったのだ。その意味で4代の松山くんはえらい。これ以後は部員が非常にふえた。5代の山根木君も会社の社長になっているし、合気道部の運営には経営の才覚が必要なのである。


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