大和1999年巻頭言
「個性、創造性、ゆとり」

日本人には個性、創造性がない!?

現代の教育を語る上において、「個性」、「創造性」、「ゆとり」という言葉はキーワードである。あるいは呪文といってもよいであろう。それらは以下のような文脈で語られる。
「個性」に関して言えば、日本人は個性が乏しい、西欧人は個性尊重であり、個性的である。日本が西欧に追いつき追い越すためには、日本人も個性的でなければならず、個性を尊重しなければいけない。教育においては、個性を伸ばすように指導すべきである。

「創造性」も同様な文脈で語られる。日本の技術は応用に優れているが、その基礎は西欧が開発したものである。日本はそれにただ乗りしているとする西欧からの批判がある。日本の科学者でノーベル賞を受賞したものは少なく、アメリカの大学には掃いて捨てるほどいる。これも日本人に創造性、独創性が欠けている証拠である。日本が西欧に追いつき、追い越すためには創造性、独創性が大切であり、教育は児童、生徒、学生の創造性を延ばすように指導すべきである。個性と創造性は独立のものではない。創造的な学者、芸術家は個性的である。従って、個性伸張教育は創造性教育にもつながる。

日本の学校は、おしなべて画一的であり、個性的な生徒が出にくい。また創造性を涵養するよりは、知識丸暗記の教育に偏している。ものごとがなぜそうなるかを考えるよりは、知識を教える、覚えさせると言う教育方針を取ってきた。しかも、授業時間が多すぎて生徒たちは考える時間がない。これを是正するためには、「ゆとり」が必要である。そのためには、科目数を減らす必要がある。

大学生の学力低下の元凶は個性、独創性、ゆとり尊重にある

現在の教育問題で、大きく話題になっていることは、小中校の学級崩壊であり、大学生の学力低下である。私は学級崩壊に関しては、当事者でないのでよくは知らない。大学生の学力低下に関しては「分数のできない大学生たち」という本で有名になっているし、それは私の実感でもある。私の本論での意見は、学級崩壊、学力低下など現代の教育問題の根元、犯人は、「個性尊重」「独創性尊重」「ゆとり」という呪文にあるというものである。

西欧人が個性的であり、西欧社会が個性尊重であり、日本社会がそうでないというのは事実であろう。しかし、だから個性尊重のほうが正しいとするのはどういう根拠があるのだろうか。西欧キリスト教文化が正しく、日本の文化は間違っているというのであろうか。どちらの文化が正しいとか、正しくないということはあり得ないと私は思う。もっとも現代のグローバルスタンダードにもとづく競争に、どちらがより適しているかという議論なら成り立つ。

人々が個性的ということは、いいかえればバラバラだということだ。近代社会を成り立たせてきたもの、それは工場、事務所、学校、軍隊などの組織集団である。そこで重要なことは規律である。各人がバラバラなことを言ったり主張したりしたのでは、組織は成立しない。天才や偉人が個性的なことは事実である。ニュートンは非常に個性的な人物であった。というよりは、鼻持ちならないいやなやつであった。そのため周りの人間は被害を受けたかもしれないが、後世の人間は非常な利益を得た。こんな場合は、ニュートンの個性は有益であり、わがままは免罪される。

天才が個性的であるとしても、その逆は真ではない。個性的な人間が天才であるというわけではない。能力がなくて、しかも個性的な人間は単に変人であったり、規律を乱す人間に過ぎない。世間の多くの個性的人間は、ほとんどがこのたぐいの人間である。教育で個性を育てようとすることは、生徒に好き勝手にしなさい、規律を無視しなさいと教えるのと同じ事で、学級崩壊は当然の帰結であろう。好きな勉強はするが、いやなことはしないという自由を生徒に与えて、学力低下をもたらす元凶でもある。

創造性、独創性も天才の所有物である。しかし普通の人間が発揮する創造性、独創性は単に風変わりであるに過ぎず、社会に貢献するわけでも何でもない。刺身にジャムを載せて食べることは、確かに個性的、創造的、独創的かもしれないが、何の意味もない。創造性、独創性は大切であるが、あまりそれを言い過ぎることは、基礎的な勉強を軽視させる傾向を生む。ピカソは天才で、当時としてはとても個性的、独創的な絵を描いた。しかし彼は非常な訓練をしてデッサン力は確かである。それ以前の学説を破ったり、傾向を打破したりした天才たちは、しかし徹底的に基礎を学んだのである。学問で言えば、基礎学力なしに、真の創造的など発揮できるはずがない。

文部省は「ゆとり教育」を進めている。生徒たちに詰め込み教育をやめて、時間的ゆとりを与え、考える時間を与えるためである。その結果生じたことは、授業時間の減少であり、学力の低下である。生徒たちはゆとりの時間を、考えるために使うのではなく、遊ぶのに使うのであろう。

責任は知識人、マスメディア、文部省にある

これらの問題はなぜ生じたのであろうか。だれに責任があるのであろうか。わたしの意見では、それは教育を語る文化人、知識人、批評家、評論家、コメンテーター、それに発言させるマスメディア、マスメディアに迎合する文部省であると思う。「なんとか審議会」を牛耳る先生方、文化人が犯人である。もっとも役人は自分の意見に反対の知識人を審議会に入れないから、知識人と文部省は共犯かもしれない。私は日本の教育を支えてきたのはマスメディアでよく叩かれる、日本の学校とその先生方であり、教育を現に崩壊させているのはしたり顔の知識人、マスメディア、文部省であると信じている。

ところで文部省、政府の教育目標の第一は、学校での国歌斉唱と国旗掲揚である。あるいは教科書における、政府に都合の悪い記述の検閲である。彼らは、それさえ成功すれば、学力もしつけもどうなってもよいのであろうか。そう思っているとしか考えられない。実際、指導要領の改訂でさらに授業時間を減らそうとするのが政府の方針である。まさに学級崩壊、大学生の学力低下が政府・文部省の目標であるとしか思えない。

政府、文部省はともかくとして、知識人、評論家たちがマスメディアを通してとなえることは、それ自体だけ取り出せば、間違いではないかもしれない。しかし、問題は言ったことの結果、どうなるのかという事に関する深い洞察がかけていることである。例えば大学入試批判がある。私が入試を受けた1961年度当時からそれはあった。大学入試が日本の教育における諸悪の根元であるように語られ、たえざる入試改革がなされてきた。その結果の最たるものは共通一次試験(センター試験)であろう。しかしそれで昔より、事態はよくなったのだろうか。あるいは昔の事態はそもそも悪かったのだろうか。私には、そうは思えないのだが。私が教育を受けた40-50年前から、営々としてさまざまな教育改革が行われてきた。その結果が現在である。私は自分が昔受けた教育がそんなに悪いものだとは思っていない。現在の教育のほうが優れているとはとうてい思えない。

日本の常識は世界の非常識・・・マスメディア、知識人の言うことはいいかげん

大学入試の個々の問題点について語るのはやめよう。私が日本のマスメディアの論調に違和感を覚えるようになったのは、1975-77年の英国留学の時である。私はとなりのおばさんと、教育に関して大論争をした。私の論点は、「日本の教育は間違っている、その諸悪の根元は大学入試にある」というものであった。私はこの意見を自分の意見であると信じていたのだが、後で考えるとマスメディアの意見の受け売りに過ぎなかった。ところがおばさんは言った。「それではなぜ日本が戦後の混乱から復旧して、こんなに大国になったのに、英国は凋落したのか。それは日本の教育が良く、英国のそれは悪いからだ。日本の教育の成功の根元は大学入試である。なぜなら、英国のマスメディアはそういっている」私はそれを聞いて、目から鱗が落ちる気がした。日本の常識は世界の非常識、これだ!

そのことは、後にもドイツでイスラエル人と論争したときにも感じた。それは1980年代の半ばのことであった。私は日本経済がいかにだめか、円高がいかに困るかを力説した。それも当時の日本のマスメディアに横溢していた意見を、自分の意見と錯覚して言ったに過ぎない。そしたらそのイスラエル人は、日本ほど経済がうまく行っている国はないのではないかといった。それで考えた。石油ショックの時も、ニクソンショック、円高ショックの時も、マスメディアはいつも日本が今にも沈没すると書き立てた。しかし後になってみると、日本はそれをバネにして立ち直っただけでなく、以前にまして良くなったではないか。マスメディアや、それに寄生している知識人、評論家は何を言っているのであろうか。彼らの言うことは信じるに足りないことを、またしても知ってしまった。日本の常識は世界の非常識なのである。マスメディアの言うことを信用してはならない。自分の頭で考えなくてはならない。外国人との対話はそういうことを私に教えた。私にとっての大転換であった。多くの人、とくに、したり顔で意見をいう評論家の言うことは、本当に正しいのか、つねに眉に唾をして聞こう。私は日本スケプティクスという会に入っている。スケプティクスとは、批判者とか懐疑者ということである。会自身は疑似科学批判の会であるが、それはさておき、スケプティカルであることは、何につけても重要だ。

評論家、指導者は小賢しいだけ

それでは、評論家たちは悪人なのであろうか。そうとは思えない。彼らは多分、善人であり、自分の説は正しいと信じているのであろう。政府や社会が彼らの言うとおりにすれば、世の中は改善されると信じていると思う。私にいわせば、彼らは賢いけれど、賢さが足りない、つまり小賢しいのである。こうすれば世の中が良くなる、というほどに世の中は単純でもないし、甘くもないのである。

その一番、大々的な例は共産主義であろう。それを唱道したマルクス、エンゲルスなどがアホであるはずはない。小賢しいどころか、非常な賢人である。彼らは人類の未来の幸福を考え、彼らの言うとおりにすれば、世の中は良くなると唱えた。それを信じたレーニン、スターリン、毛沢東のなしたことは、結果的には数千万にのぼる大量の餓死者の生産であり、収容所列島の建設であった。もっと小型のポルポトは数百万の虐殺を行った。金日成、金正日親子はどうであろうか。彼らが、自分の意識の中で自分を悪人と考えているはずはない。人々の幸福を考えているのだと思う。しかし結果は正反対である。彼らを小賢しいというのは不適切であろう。しかし、日本の知識人や評論家は小賢しいという批評がもっとも当たっているのである。

人間社会は複雑だから、未来が読み切れないのが原因

何が問題かというと、人間の行動は単純なものではなく、なかなか頭で考えたようには行かないと言うことだ。それには根元的な理由があると思う。人間社会は、昨今はやりの言葉で言えば、複雑系であるからだ。複雑系では原因と結果の関係、つまり因果関係が単純ではない。ある結果を見て、その原因があれだとか、これだとか簡単にはいえない。それを小賢しい人々は、この現象の原因はあれだから、あれをなおせば問題は氷解すると、単純に考える。つまり取った対策の副次的な効果を考えずに、目先の問題にのみ対処しようとする。

悪いことには、この小賢しい人々は一定の発言力と影響力を持っているので、事態は本当に悪い方向に進むのである。彼らの言葉を信じて、改革すればするほど、改善すればするほど、事態は悪化するのである。放置した方がまだましというものだ。

私はこれらの知識人、評論家、マスメディアにもっと謙虚になれといいたいが、ここで言っても何の効果もないであろうから、読者の方々には、彼らの言うことを鵜呑みにするな、なにごとも自分の頭で考えろということを言いたい。マスメディアが一斉にいうことの正反対あたりが、多分正解であろう。

あれえーー。個性的になるなと言いながら、正反対のことを言ってしまったようだ。みなさん、小賢しい私の言うことも信じないように。